妖の間(あやかしのま)4
「どうしよう…」健太郎は慌てた。
「どうした?」声が聞こえた。声の方を見ると、あの女将らしい老婆が立っていた。
健太郎は慌ててタオルで前を隠して「大変です。妻と子どもたちがいなくなったんです。もしかしたら風呂に沈んでいるのかも…」と言うと老婆は笑った。
「お前の身勝手な理由で無理心中しようとしていたくせに心配するとは笑止千万…」老婆の高笑いが浴場に響いた。
「え?」健太郎は驚いた。何で知っているんだ?
「この宿に来るのは、すべてお前のような奴だ」
「…」
「すべて運命が引き寄せるんだ」老婆が笑った。
「そんなことはどうでもいいんです。警察に、いや、消防署かな? 連絡して下さい。妻と子どもを…」健太郎は、そう言いながらも風呂の中を歩き回って妻と子どもを探している。
「大丈夫だ。お前の奥さんと子どもは無事だ」
「え…」
「あれを見ろ」老婆が指さす方を見ると、理恵と翔太と真理が湯船の上に立っていた。宙に浮かんでいるのだった。
「理恵っ!」湯船の中をかき分けて理恵たちのところに進もうとすると身体が動かない。
「条件がある…」老婆が言った。
「え?」
「お前が家族のために死ねるのであれば、家族を無事に帰してやろう」
「死ぬ?」
「そうだ。お前の考えていた無理心中は人として身勝手で最悪の手段だ。だからお前は罰を受けねばならない。お前が死ぬことで家族は助かるんだ」
「…」
「あれを見ろ」老婆が理恵たちを指さすと翔太と真理の背が大きくなっていく。よく見ると理恵も年をとっていくように見えた。
「ああ…何だ、これは?」
「3人の時間を20年進めたのだ。奥さんは48歳になった。ふたりの子どもたちは25歳と23歳だ。お前が死ぬことで、奥さんと子どもたちは救われるのだ。お前の奥さんは、パートで働いていたスーパーの店長になった。息子は大学を出て医者になった。娘も兄と同じ道を目指している」
「ああ、僕が死んだことで、妻たちの運命が好転したんですね」
「そうだ。お前が無理心中をせずに一人だけで死ねば、奥さんたちの運命は好転するんだ。さあどうする?」
健太郎は悩んだ。正直に言えば家族全員で幸せになりたい。自分だけ犠牲になるのは辛い…。
老婆は首を振った。
「お前が死ねば、家族はあのような幸福な未来が待っているが、お前が無理心中を実行すれば、お前も家族も消滅するだけだ」
どうする…? それにしてもこの老婆は何者なのだ? 魔女?
「わたしは魔女ではない。時間を自由に動かすことができるだけだ」
「はぁ…ふぁ、ふぁ、ファックション!」くしゃみが出た。寒気がする。
「早く決めぬと風邪をひくぞ」
「わかりました。僕は死んでもいいから、妻と子どもを救って下さい」
「承知した。それではお前は消滅する。奥さんたちにはお前の良い記憶しか残らないから安心しろ」
「そうなのか…。あ、待って…その前に、妻と子どもにひとこと、言いたいんだ…ひっく…ううう…」健太郎は泣いていた。
それを見た老婆は少し考えてから「いいだろう。ただし、今の奥さんと子どもたちに意識はない。お前の、そのひとことは彼女たちに記憶されないぞ」
「いいです」
「承知した。それでは近くまで行って話すが良い」
「ありがとう…ううう…」健太郎は涙で前がよく見えなかったが、ようやく理恵たちの前まで来ると、泣きながら自分の家族の姿を見た。
「俺は、お前たちを殺そうとした。本当に申し訳ない」深々と頭を下げた。
「理恵、俺はお前と結婚できて本当に良かった。翔太と真理を産んでくれて本当にありがとう。俺なんか忘れて幸せになってくれ。翔太、お前とキャッチボールしたり釣りしたりしたかったな。真理、可愛く育って、俺みたいな奴とは結婚しないでくれ…」情けない…ありきたりな言葉しか出てこなかった。情けなくて泣いた。もう立っていられなくなった。湯船の中で号泣した。
「あ…」健太郎はもの凄い水流に押し流されていく。湯船のお湯がどこかに抜けるようにグルグルと渦巻きながら健太郎は一カ所に吸い込まれていく。「うわぁああああっ!!」健太郎が最後に目にしたものは理恵と翔太と真理の笑顔だった。
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