忘れもの
◇読了時間目安:約8分(4200字)
図書館には真っ赤な陽が射していた。
「ねぇ、先生。私にとって本はげんじつとうひなの。だから、このまま本をよみつづけて、げんじつにもどれなくなったらどうしよう」
Rは長机に突っ伏して、小さな肩を振るわせて泣いた。
図書館にはRの嗚咽が響いた。
「そうね。でも、本は……」
優しく背中をさすりながら、先生は言った。
最近Rは仕事がうまくいっていなかった。
新しくできた後輩は中途採用で入社した年下の女の子だったが、この半年でめきめきと頭角をあらわし、そのうち抜かされるのではないかといつも焦っていた。
しかし焦れば焦る程うまくいかず、Rは「仕事なんてどうでもいい」という態度で、プライベートが充実している振りをした。実際は、彼氏なんてここ数年できていないのに。
「何もかもうまくいかないな」
12月に入り、仕事は年末進行でとても忙しくなっていた。しかし、人間忙しいときは意外とのっているもので、なんとか無事に年末進行を乗り切れそうだった。
(やっとゆっくり休める)
そう思っていた週末。Rはミスをした。誤植を出してしまったのだ。
いつからこの表記になっていたのか、誰の指示だったのか、指示はないのに誰かが勝手に判断してこの表記にしたのか。これまでの経緯を洗い出すことになった。
久しぶりに土曜・日曜と休める予定だったので、金曜の今日はどこかに飲みにいく予定だった。しかし、今夜は飲みに行けそうもない。
デスクに1人で残り、これまでのラフやカンプや指示書、赤字をすべてひっくり返しチェックしていった。
(このまま消えてなくなりたい)
(どこかへ逃げてしまいたい)
しかし、Rには逃げる場所などどこにもないことがわかっていた。
どんなに泣いても、この大量のカンプたちをさばかなければ帰れないということもよくわかっていた。
作業が終わったのは25時を少し過ぎた頃だった。結果をとりいそぎメールで上司に報告して、今日は切り上げることにした。
「週明けは報告書から始まるのか」
つぶやいてみたが、すぐに声は孤独の中に吸い込まれた・
Rは最後の力を振り絞り、タクシーに乗り込もうとしたが、このまま1人の部屋に帰り、ただ眠るのはなんだかとてつもなく悲しいような気がした。
「やっぱり1杯だけ飲もう」
Rはタクシーには乗らず、そのまま近くの繁華街へ向かった。
少しお腹が空いていたが、1人で居酒屋に入る気にはならず、仕方なくバーへ入った。前から一度入ってみたいと思っていたオーセンティックなバーで、以前であれば1人で入るのは気がひけた。しかし、今夜はこういったバーで気持ちを作らなければ、自分が壊れてしまいそうだった。
まずはチーズとホットカンパリを頼んだ。あまり酒は強くない上に、お腹が空いていたので、すぐに気持ち悪くなった。
(今日はとことんだめだ。早く帰ろう)
そう思っているところに、1人の男が声をかけてきた。
「こんばんは」
男はネイビーのスーツを来ていたがネクタイはしめていなかった。年はRより少し上だろうか。サラリーマンといった風情だが、たった一カ所だけRの目には奇異にうつった。それは真っ赤なポケットチーフだ。白光りするような安っぽい光沢で生地が薄いのだろうか、それはポケットの中でぐにゃりと頭をもたげていた。あまりにも悪目立ちし過ぎて、男の印象を全体的に風変わりなものにしていた。
「こんばんは」
それでもRは目一杯気取って言った。今夜はひとりでいたくないと思ったからだ。
「何を飲んでいるのですか?」
男はRのグラスに目をやった。
「ホットカンパリよ」
「いいですね。では僕も同じものを頼もうかな。すみません——」
そう言って男はそのままRの隣に腰かけた。
「あっ。隣いいですか?」
男はふいに真面目な顔になってRに聞いた。その男の顔があまりに真剣だったので、Rはふふふと笑ってしまった。
「えぇ、もちろん」
それからあらゆる話をしたが、主にはRのグチだった。決して知り合いには話さないけれど、初対面で全く知らない相手だからこそ色々な話が出来た。
Rはホットカンパリの次にグラスホッパーを頼んだ。甘いお酒で幸せになりたかったのだ。それから、酔いも忘れて話し続けた。しかし、Rはそろそろ横になりたくなってきた。
(どうしよう。なんて誘えばいいかしら)
すっかり酔いの回った頭で考えた。考えたが、色っぽい誘い文句は自分には言えそうにない。そう思っているうちに、男の方から家まで送ると言ってくれた。
(何となく野暮ったい感じもするけれど、まさか本当に送るだけではないだろう……)
Rはそう思い、久しぶりの人肌を想像しうっとりとした。帰りはタクシーを使った。家までの道順をどう説明したのか自分でも覚えていない。しかし、タクシーがマンションの下まで着いたとき、きちんと部屋を片付けておけばよかった、と心底思った。そう、心底思ったのだけれど、記憶はそこまでだった。
翌朝Rは目を覚ました。いつも通り自分の部屋で目を覚ました。
そして気が付いた。
(あっ、あの人)
辺りを見回してみたが部屋には誰もいない。
次に自分の洋服を確認したが、しっかり昨日の洋服のままだった。
慌ててカバンも確認したが、財布も携帯もきちんともちろん財布の中に入っていたお金やカード類もそのままだった。
(何があったのだろう)
いや、もちろんRには分かっていた。何もなかったのだ。
大方の想像はつく。
2人で部屋へ入ったはいいが、部屋のあまりの荒れように男の気が滅入り、そのまま帰ってしまったのだろう。そんな事とはつゆしらず、私はそのままベッドで爆睡してしたったという訳か。
しかし、結果的には見ず知らずの人と身体を重ねることがなくて本当によかったと思った。出し惜しみする年齢ではないが、自分は大切にしなくてはと思った。
(そうだ、結果オーライだ)
そう思い、ベッドから起き上がろうとしたときに、本が1冊置いてあるのに気が付いた。ミファエル・エンデの『モモ』だった。それには丁寧にリボンがかけられていた。赤と緑の光沢のある美しいりぼんだった。
Rには覚えがない。しかし、思い当たる事と言えばただひとつ、あの男だった。あの男が忘れていったものに違いない。
そう思ったけれど、しかし、ベッドの上にわざわざプレゼントを忘れるだろうか。昨日の記憶が全くないので何とも言えないが、それでも不自然な気がした。
(いや、あの人なら……それとも……)
自分へのプレゼントかもしれないと思った。
確かに全体的に野暮ったい雰囲気ではあったが、真っ赤なポケットチーフやふとした仕草など、何となく気障だったなと思い出した。
それにしても、なぜ『モモ』なのだろうか。さしずめ、私が灰色の生活を送っているとでも言いたいのだろうか。
Rは腹がたってきた。
(そんなことは分かっている。プライベートを犠牲にして仕事を頑張ってきたけれど、私の仕事なんて人の命を救ったり、世界をイノベーションするとかそんな大層なものではない。たかだか企業の広告を作っているだけだ)
(いや、それでも仕事で充実感や達成感を得られているのであればまだいい。私は仕事でもそんなものは得られていない。ことにここ最近は仕事からも逃げ腰になってきて、自分の居場所がなくなっていくのを……感じている)
(分かっている。言われなくても分かっている。けれど、そう簡単に自分や自分の状況を変えられるものではないし、童話のようにはうまくいきっこない)
Rは後悔した。酔った勢いとはいえ、自分からべらべらと自分の状況や愚痴をしゃべり、それに対してこういった形の慰めを受けると、それはそれで非常に惨めになったのだ。
本をぽいっとベッドの上に放り投げ、もぞもぞと起きて朝ごはんを探した。
朝ごはんを食べてからも、Rは何もする気が起きず、ベッドにもたれかかりテレビを見ようとした。しかし、どのチャンネルもつまらなかった。
(どこか遠くへ行きたい)
そう思ったとき、ふと思った。
「久しぶりに読んでみるか」
Rは気障にリボンをかけられた『モモ』を手に取り読み始めた。
何度も読んだことがあるし、内容や展開も覚えている。それでも、Rはどんどんと引き込まれ、読み進めていった。そしてついに、Rは小さなアパートの中でモモと一緒に旅をはじめたのだ。
気が付けば昼もとっくに過ぎて、アパートには赤い陽が差し込み始めていた。
「お腹すいたな」
Rはとりあえず一度本を閉じ、コンビニへ食べるものを買いに出かけた。
思えば幼い頃はたくさん本を読んでいた。小学生の頃は、年の離れた姉と母親とのケンカが毎日耐えず、家にいるのがイヤだった。かといって毎日誰かの家に行く訳にもいかず、Rはほとんどの放課後を図書館で過ごした。
図書館にいればRは魔法使いにもなれたし、恐竜に乗って旅も出来た。いくつもの星をめぐることもできたし、時には織田信長にだってなれた。
それが小学生のRにとっては楽しくもあり恐ろしくもあった。
もちろん『果てしない物語』のように、実際に本の中に入ることができないのはわかっていた。しかし、いつの間にか本の世界にひきずりこまれ、現実と本の世界の区別がつかなくなってしまったらどうしよう、と恐ろしかったのだ。
(そういえば一度泣きながら先生に聞いたことがあったかな)
Rはぼんやりと考えながらコンビニでおでんとおにぎりとショコラムースと翌朝のパンを買った。
「ありがとうございました」
コンビニから出るとRは少し早歩きで家に向かった。続きが早く読みたかった。
結局その日の夜遅くまでかかり、Rは一気に『モモ』を読んでしまった。
読み終わったあと、Rはすっかり疲れてしまった。けれど、とてつもない充実感にも満たされていた。何も、何ひとつ変わっていないのに、週明けからまた仕事が頑張れそうな気持ちがした。それから、明日は朝早く起きて部屋を掃除して、本屋へ行こうとも思った。そして、もし出来るなら、親に連絡もしてみようと思った。
(そうか、先生は「本はあなたの味方よ」と言ったんだ)
本はあなたを無理矢理に引きずり込んだりはしない
ほんの少しあなたと一緒に旅をするだけよ
いいじゃない、逃げたって
少し休んで、また頑張れればそれでいいのよ
Rはすっきりとした気持ちで歯を磨きに行こうと立った。そのとき、赤い気障なリボンが目に入った。結局何となくあの男の想い通りになった気がして少し腹立たしくもあったが、それでも素直に感謝したい気持ちもあった。
(ありがとう。この贈りものに)
みなさん、メリークリスマス
お読みいただき、ありがとうございます。もし気に入っていただければ、今後も遊びにいらしてください。よろしくお願いします。