見出し画像

40代・独身・子なしの私が全年代の母たちとその夫たちに伝えたいこと

当初の人生設計なら今ごろとっくに母になっているつもりだったが、予想に反して40代・独身・子なしであるその立場からあえて、全こどもを代表して年下年上問わず全ての年代の母たちに伝えたいことがある。

先週のゴールデンウィーク。せいぜい近所の友達に会うくらいで特に大型の予定を入れず、ここぞとばかりにたまりにたまった雑事に専念しようと思っていた私の連休は、あっという間に終わった。片付けたかった雑事は半分も終わっていない。

ある日は友達が来るというので朝から料理をしていた。合間合間で洗濯したり干したりしながらデザートのティラミスも作り、ついでに自分の作り置きも何品か作った。一息つく頃には15時になっていた。

画像1

得意かどうかはさておき私は料理が好きだ。しかしその日は「読みたかった本を一冊読み終えた」とか「今日はハイキングに行った」みたいな達成感はまるでなかった。むしろ「自分は今日生産的に過ごせたのか」と微かな虚無感を抱いたぐらいだ。

料理はあくまでも日々の営みの一部だ。見方によっては雑事と言ってもいい。やってあたり前のことなのである。私はこの時改めて、世の中の全ての母たちに尊敬の念を抱いた。

時間も労力もかかる重労働でありながら、さして感謝されることもない炊事・洗濯・掃除などの家事を、子どもの塾の送り迎えをしながら、子どもの宿題を見てあげながら、リモートワークで家にいるようになった夫の昼ごはんという追加のタスクまで増えるなか毎日こなしているのだ。どうやってやっているのか、と思う。まるで魔法使いじゃないか。

会社の仕事のように「大きなプロジェクトを一つ終えた」というような形で自分の貢献が可視化されることもなければ、目標を達成したらボーナスをもらえることもない。

家事は名もなき重労働だ。

先日LINEでやり取りしている中で、同級生がこんなことを言った。「もう(あれから)4年かあ。別にぼーっと過ごしてたわけじゃないけど、点としての記憶がまばらにあるだけで線としての流れが感じられないのよね。何してたのかしら、私」と。

画像3

毎日毎日家事を頑張っていても、やった感はきっとないのだろう。むしろ、片付けるそばからリビングは散らっていくなど、三歩進んで二歩下がるどころか、三歩進んで四歩下がるような気持ちにさえなることもあるだろう。

ふと、遠い昔に母と交わした会話のことを思い出した。

多分テレビを見ながら、、、確かあれは加賀まりこさんだったと思う。私が「この人綺麗だよねえ」と言うと母は、「そりゃそうだよ、この人子どもいないもん」というようなことを言った。確かに母からは「あんたがお腹の中にいる時はいっぱい栄養を送ろうと10キロ以上も太った」と聞いたことがあった。

画像3

父の独身時代の部屋。加賀まりこさんの巨大パネルを父は結婚してもしばらく大事にしていたため、母は彼女にちょっと嫉妬していたのかもしれない。

思春期真っ只中の私は「はぁ?太ったのを私のせいにしないでよ」というような感情を抱いた気がする。口に出したかどうかは記憶にない。

当時の母は今の私より若い。今になって、あの時の母はもしかしたら、ああ言えばこう言いかえす生意気な娘に対して「こんなに自分は子どもが生まれる前から子どものためを思ってあれもこれもやってきたのに、報われなくて虚しい」というような思いを抱えていたのかもしれないと思う。

前段で私は作り置きを作ったといった。それは主には、食物繊維摂取のためのひじきや切り干し大根、切り昆布の煮物などだ。自分の健康のための食事だし自分の好きな味に作るから、毎日食べても飽きないし、言うまでもなく残す人もいない。

一方で子どもがいたらそういうわけにはいかなかったと思う。大人が健康管理のために低脂質に配慮した食事を作りたくても「ひじきなんか食べたくない」ときっと子どもは言っただろう(子どもの頃私はひじきが好きじゃなかった)。むしろ「唐揚げが食べたい」「ハンバーグが食べたい」という子どもに合わせて、大人の血中脂質は一旦横に置き、子どもが大きくなるためにモリモリ食べくれる食事を毎日考える必要があったのだと思う。そしてそんな風にして作った食事でさえ、子どもが残したら自分が残飯処理をし、ダイエットしたいのにダイエットできないというような状況にもなったことだろう。

あくまでも推測に過ぎないが、お母さんたちがキャラ弁を作るようになったのは、もしかしたら無意識のうちに、特別誰に褒められることもないお弁当作りという日々の雑事を「こんなに手の込んだお弁当を作った」とすることで、共有に値する価値ある活動に昇格させたかったからではないだろうか。なんといっても達成感がありそうである。

若干話が脱線したが、私がゴールデンウィークのとある一日に感じた微かな虚無感が、もしも毎日何年も続くのだとしたら「私は一体何を成し遂げたのだろう」という気持ちになるのは想像に難くないと思った。

私は実年齢よりも若く見えると言われることがあるが、もしそれが本当だとしたらそれは単に私が、紫外線降り注ぐ炎天下の公園で子どもが遊ぶのを何時間も見守ることもなければ、子どものお弁当を作るために5時起きすることもなく、休日は寝たいだけ寝、せっかく作った食事を残されて残飯処理することもなく、体が重いなと思えばエクササイズする時間があり、片付けるそばから散らかっていくリビングを見て腹を立てることもなければ、言っても言っても聞かない子どもにストレスを感じることもないからである。

はっきり言って、この歳で独身でいると「俺と不倫しない?」と誘われることもある(もちろんそんな言い方ではないが)。だが私は一瞬でもそんな気持ちを抱いてしまう世の夫たちに言いたい。

その人が魅力的に見えるのは、あなたの奥さんが背負う重労働を何一つ背負っておらず、時間とお金の全てを自分のためだけに使っているからだと。その人にシミがないのは、皮膚科で消してもらっているからだと。もしも生活を共にするようになり母になる日がくれば、その時には消えてしまう儚い魔法なのだと。

「だってあの人は子どもを産んでない」という言葉がまさか30年後の娘の胸にまだ残っているなどとは言った本人もびっくりするだろうが、この環境で健康と美を維持できないならそれは言い訳のできない怠慢だと、自分にも娘にも厳しかった母の言葉がいつもそっと私の背中を押す。

私はできることなら、炎天下の公園で紫外線を浴びることと引き換えにしても、子どもの成長を見守るという経験をしてみたかった。母の日には「おてつだい券」をもらってみたかった。

あなたが過ごしている「あっという間に過ぎる一日」は、なんでもなく過ぎれば過ぎるほど、かけがえのない平和な一日であるということを忘れないでいて欲しい。

昭和の子どもの私は、平成や令和の子どものように「ママ大好きだよ」なんて手紙を書いたことはない。母は「お金がもったいないからカーネーションなんて送らなくていいよ」と何度となく私に言ったが、私は毎年欠かさず母にカーネーションを送りつづけた。母はいつからか「ありがとう」と素直に受け取ってくれるようになった。

お花をもらって嬉しくない女性なんていない。でも世の母たちは、自分のことは常に後回しだ。

私の母は六年半前に他界した。私にはもうカーネーションを受け取ってくれる母はいない。だから世の中の全ての母たちに、私にできない未来世代を育てるというとんでもない偉業を成し遂げている母たちに、大きな声で言いたい。

名もなき雑事を毎日こなしてくれてありがとう。自分のことより子どもをいつも優先してくれてありがとう。愛情いっぱいに育ててくれてありがとう。今日も生きていてくれて、笑顔でいてくれてありがとう。


いただいたサポートは、多様な記事をお届けするための活動費等に使わせていただきます。