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希望の苗を植えたい

わたしの家族は原因不明の難病を抱えていて、ちょっと特殊な視覚障がいを持っています。そんな家族と過ごす中で感じたことや、わたしの中にある小さな思いを綴っていけたらと思います。

「障がい者」と「難病患者」

中途で障がいを持った場合、すごく大変なご苦労があると思います。たとえば病状の進行がなく症状が固定の場合でも、その不便さを受け入れたり克服するのはとてつもない努力を伴います。
それでも世の中を見渡すと障がいを持ちながらも、不便さを克服して元気に活動されている方もたくさんいます。

難病患者は、日々体調が不安定だったり病気の進行に怯えながら、1日でも早く治療法が世界のどこかで見つかることを祈りながら毎日をやっと生きている人が多い気がします。
体調が悪いうえに、不便さを抱えている…

どちらがどうだ、という話ではなくて
実はそこに大きな違いがあることを知りました。

不便さを受け入れるということはできても、病気が進行して体調が思わしくない中で、失っていくものを受け入れるのは、すごく忍耐と精神力がいります。努力をして不便さをなんとか受け入れても病気が進行して、またさらにできることが制限されていくのです。その度に心が折れそうになります。

希望という名の支え

そんな家族と過ごしていて、毎日少しでも希望の持てる話題やニュースを探すようになりました。心をなんとか落っことさないようにするために「希望」という支えを日々探します。

「あの難病の特効薬が発見されたらしいよ」
「こんな病気の人が今は元気に活躍しているよ」
「大好きなアーティストの新曲が発表されたよ」
「あの迷子犬が見つかったらしいよ」
「お気に入りのレストランがテイクアウトできるようになったよ」
「○○さんからこんなメッセージが届いてるよ」


世界中でまだ誰も治療法を知らない、という希少難病になると、希望を持つこともすごく困難だったりします。
毎朝起きるたび、体調が良い日が来ない、いつまで続くかわからない。同じ病気の仲間や、研究してくださる医療関係者を見つけることすら難しい。
そんな日々の中で希望を探すことをあきらめてしまう人もいるかもしれません。

少しでも自分が前を向いて生きていくための支えが「希望」なのだとしたら、これが何より人間として必要なんだと、家族と過ごす日々で痛感しています。

今日はどんな希望を見つけられるだろう。

毎日そんな思いで過ごしています。
もう崖っぷちなのかも、とか考えることもあります。
絶望と隣り合わせなのを肌で感じる日もあります。
崖の向こう側へ、小さな力でも押されたら落ちてしまいそうな夜もあります。

情報が遮断されるような不便さの中を
なんとか手探りで歩きながら
「どんな希望の種を見つけられるか」
本当に小さな種が、わたしたちにとっては明日への救いだったりします。

いま世の中が大変な中で、本当に苦しい立場にいらっしゃる方も多いことと思います。誰かが発した何気ない言葉に絶望したり、または救われたり、そんなことが目まぐるしく起こっています。

どうせなら、
わたしは誰かが救われる言葉を発したい。
いつも、誰かが優しく発してくれた言葉に救われている側です。
言葉の怖さも、言葉のもつ優しさも、
どちらも日々感じているから。
崖っぷちを歩いている人がいたら、背中を押すようなことはできない。

希望の苗を植えていこうよ、と
あらためてそんな言葉に力をもらう日々です。



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