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子どもの頃の全能感

子どもの頃って、「自分にはなんでもできる!」「自分は至高の存在だ」といういわゆる”全能感”があると思うんです。

やっぱりそれって、親の愛情、安心の中で育まれるし、加えて、子どもならではの視野の狭さがそうさせているんだろうな、と。(実は大人が裏で手伝ってたり、守ったりしている)

それが、中学生くらいになると周りが見え始めて、「あれ、俺ってもしかして全能ではない...?」と思い始める。

日々こなす必要のある課題(勉強ではなく、人生における課題という意味で)も難しくなりつつある。

そんな中で、初めて”存在に不安”を覚えるんじゃないかと。

俺っていいのかな、”アリ”なのかな、と。

心理学の入門書として我々の塾が崇拝というレベルでお世話になっている『行動科学への招待』という本に、『自我の発見』についてシュプランガー(Spranger, 1924より) が、

『主観をそれ自身一個の世界として見出すこと、すなわちつねに孤島のごとく、世界のすべての事物及び人間から離れた一個の世界として発見することである......従ってこれには大きな孤独の体験をともなうのである。』

と引用されている。

平たく言ってしまえば、

「あ、自分は人とは違う。違う個人なんだ」ということに気づき、

「違う、ということは、100%理解し合ったり、100%安心なものってないのか」と知ることになる。

そしてそれは、生まれて初めて”孤独”とはこういうことか、と知ることになる、という理解をしている。


やっぱり、中高生の不安って、生まれて初めて自分が「自由な個」として存在することに喜びや興奮を覚えつつも、強い不安を同時に感じているんだろうな、と推測する。

ただこれは、中高生だけではなくて、大人だって視野が広がったり視座が高くなると、「あぁ、こんなこともしてもらっていたのか」「裏でこんなことになっていたのか」と自分の思い違いを知るようになるはず。

例えば、労働基準法に守られていたり、最低賃金が決まっていたり。ある程度の税金を払えば(あるいは払えなくても)、生活保護をはじめ、絶対に死なない制度作りがされている。

一方で、労働関係で言えば、「権利は主張せよ!!!」みたいに常に何かと戦っている人をネット上でよく見かける。会社が、労働者には想像も仕切れないようなあらゆるリスク、お金の負担を抱えていることを知らずに、組織の長を批判したりすることがある。

労働時間削減を唱え、労働時間外に労組の仕事をする、みたいな。なんのためにやってんの?定時で家帰ってご飯を一緒に食べるためじゃないの?と。

LGBT支援を声高に唱える人が、気づかずにアウティングを招いてしまったり。そういうのを防ぐために力にならないとじゃない?と。

きっと大人だって、中高生と同じように、思っているより周りが見えてないことが多いように思う。

対立構造は、常に視野を狭くする。

中高生が、「自分に価値があるか、ないか!」という二項対立にはまり、他社と比較しては本来の価値(生きているだけで奇跡だしOK)を見失うように、

僕ら大人も、気づかない他の選択肢が見えないせいで、

「これが善」「これが悪」とすぐに決めてしまいがちではないか。同時に、そうやって、「誰が悪者なのか」ということを知りたがっているのではないか。

それはきっと、不安だから。

どっちつかずのモヤモヤ葛藤は、ストレスだから。


まぁとにかく、好戦的な姿勢でいても、視野は狭まるばかり。だからこそ、粋な大人を目指す僕としては、

「え、こういう選択肢ならもっと効率よく、同時にいろんな問題が解決できるんじゃない?」

という新しい提言ができるようになりたいし、その”ベストアイディア”をブチ通すために自分の時間やリソースを全力投球したい。

これから先、一番大事なのは、クリエイティブ能力なんだろうなーと思いつつ。



・無思考に批判して安心しない。

・物事を多面的に見て、解決法を提示し続ける。

・提示した解決法を、何が何でも通す。


この3つは人生において大事な指針になりそうな気がする。

そうやって、多面的な思考で「あれ、もしかして何でもできちゃうかも?」という生き方をしたいし

それぞれの大人のリミッターを外して「なんでもできちゃうかも」にするために、自分が関わる大人+次期大人である今の目の前の生徒たちに、

子どもの頃の全能感を復活させること

が、僕のしていきたいことだなぁと、改めて思った。




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そういう意味では、zozoの前澤さんをめちゃ応援しています。

あと、今日届いたzozosuits測定のGパンが引くほどジャストフィットで感動したので、さらに増し増しで応援。

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