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映画『JOKER』を見て

アメリカのスーパーヒーロー『バットマン』に出てくる、宿敵『JOKER』のスピンオフ映画。最近だと、バットマンシリーズ3部作の『ダークナイト』に登場し、その不気味さから映画の中で主役を喰ったんじゃないかと言えるくらいの存在感を示したジョーカー。この悪の道化ジョーカーがどのようにして生まれたのか、という物語。

(以下、だいぶネタバレ含みます。)





アーサー・フレック(のちのJOKER)に起きた不幸

・ピエロの仕事をしているが、仕事中に少年たちに看板を奪われ破壊される、殴る蹴るなどの暴行を受ける

・壊された看板代を不当に給料から天引きされる

・護身用にと同僚から銃をもらうも、子どもとの仕事場で銃を落としてしまい、解雇される

・老いた母親を介護する毎日で、ひどいアパートに住んでいる、食事もままならない

・バスで小さな子どもを笑わせていたらその母親に咎められる。

・過去の虐待(父親からの暴行、母親からのネグレクト)

・虐待の後遺症による脳障害。ストレスがかかると甲高い笑いが起きてしまう

・笑いの発作のせいで、周りから不気味がられたり、自分に怒ってくる人から暴力を受ける

・脳障害のため定期的に市の福祉カウンセリングを受けるが、予算削減で打ち切られる。薬も予算カットで支給なくなる。

・地下鉄でエリートサラリーマン3人の酔っ払いに絡まれてボコボコにされる

・父親だと勘違いした相手(市長候補)に母親をけなされた上に発作→ぶん殴られる

ゴッサムシティ(作中の街)の様子

まだ、『暖かい社会の中で、起きてしまった悲しい事件』で済めば良かったのだけれど、この映画は町や社会がどんどん荒廃していく様子を写していく。荒廃というのは、他者への不寛容、格差の拡大と社会保障の縮小、富裕層への嫉妬、それに対して暴力による訴えがどんどんヒートアップしていく、そんな様子を順に写していく。その環境描写がアーサーを追い詰めつつ、彼には”もうどこにも救いがない”ような感覚にさせられる。

驚いた自分の中での心の動き

アーサーは結局、3人の酔っ払いサラリーマンを銃で撃ち殺してしまう。さらに、テレビ出演したその場で司会者の脳天を撃ち抜いたり、銃を与えてきた同僚を刺し殺したりしてしまった。

その瞬間瞬間で思ったのは、

「殺された人を全くかわいそうと思えない」

ということ。映画を見ていくうちに、アーサーの鬱屈した怒り、悲しみが自分の中に憑依してしまい、結果的に殺人によるカタルシスが、殺人に対する倫理観に勝ってしまった。

「早くこの人を、苦痛から解放してあげてくれ」という思いが勝ってしまったのだと思う。

殺人を犯した後のJOKERの清々しい様子や、晴れやかな情景描写が完全にJOKERの肩を持っていたように思う。不自由な社会と境遇の中で、狂って人を殺す以外のカードを失ってしまったJOKERに、ある種の美しさを添えて映像化しているように思った。

警察をまいて、地下鉄の駅から出てくるJOKERのスタイリッシュさといったらもう、えげつないかっこよさだったし、毎日苦しい表情で登っていた階段を、彼がダンスしながら降りていった様は美しかったと思う。

もう一度見たい理由

あの感覚はなんだったのか。なぜ殺人直後のあのシーンを美しい、かっこいいと思ってしまったのか。その根源は、そのカラクリはどこにあるのか。

そんなことを考えては、謎を解きたくなり、再確認したくなる映画だと思った。

どこまでが妄想なのか、という考察がネット上の感想では飛び交っているが、自分は正直どうでもいいと思ってしまった。その瞬間、彼が体験している妄想ないし現実が、彼にとっての唯一リアルな体験なんだろうと思う。それを客観的に見て分析するという立場を取らせてくれないほど、見る側を引きこむ映画だったように思う。


シリアルキラーを美しいと感じさせる作品が、問題作じゃないわけはないとは思うけれど、同時に衝撃的な傑作なのではないかと思う。

映画が、2時間の疑似体験の質の高さで評価されるのであれば、最高の映画だと思う。

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