空気が読めなくても大丈夫:アウトサイダーな僕が中国で暮らす理由
2015年9月から中国で暮らしています。
その話をすると、大抵の人は「中国が好きなんですね」と言われます。
もちろん中国のことは嫌いではありません。もし嫌いなら、とっくの昔に中国とはお別れしているでしょう。
嫌いな人と一緒に過ごすほど、人生は長くないのと同じように、わざわざ好き好んで嫌いな国で暮らすべきではありません。
それと同時に、中国のことが特別に好きってこともありません。でも、中国で暮らしていると日本では感じることのできない気楽さを感じることができます。
この気楽さを感じることができるのであれば、中国でなくても良かったのではないかと感じています。
では、その気楽さとは何なのでしょう。
それは「気を遣わないで済む」環境で暮らせる気楽さだと分析しています。
日本での暮らしは気もお金もつかう
わたしは「人に迷惑をかけてはいけません」「目立つことをしてはいけません」「他人を驚かしてはいけません」と言われ続けてきました。
もちろん、迷惑をかけないに超したことはありませんし、誰かをビックリさせる必要もありません。
でも、すべてが他人の評価によって価値が計られる空気感に窮屈さを感じていました。
そもそも、迷惑に感じるかどうかなんて人それぞれです。わたしが中国で気になる中国人の振る舞いも、中国人にとってはごく当たり前のことであったりします。
そういうあやふやな基準で自分が評価されることに息苦しさを感じてました。
本音と建て前を使い分けることが難しく、自分の振る舞いを振り返って見たときに恥ずかしさが止まらなくなることを何度も経験しました。
そして、空気を読めない人のことを、コミュニケーション能力が著しく欠ける人のように扱う環境にも面倒くささを感じてました。
「普通だよね」とか「当たり前だよね」と言う人の「普通」とか「当たり前」にどんな根拠があるのか確かめたいと思ってしまう自分は、日本では間違いなくアウトサイダーだったんです。
そして、アウトサイダーであることを許さない人達に囲まれて暮らしていた自分は息苦しさを感じていました。そして、この息苦しさからは逃れられないと思っていました。
中国ではアウトサイダーでいることが許される
しかし、中国で暮らし始めたわたしに大きな変化が生じました。
日本では、自分はみんなとは違うアウトサイダーだという自覚がありました。そして、アウトサイダーであってはいけないと思っていました。
でも、中国では違います。
中国のわたしは誰がどう見てもアウトサイダーです。
訛りのある中国語を駆使しコミュニケーションをとります。食習慣や生活習慣、服装や身繕いまで地元の人々とは異なっています。
「お前、どこから来たんだ」と中国人にいつも聞かれるわたしは、完全にアウトサイダーと認識されているんです。
そして、アウトサイダーであることにケチをつける人は誰もいません。自分のことを「おもろいな」と言う人はいても「それはどうなん?」と言う人に会ったことはありません。
不思議なことに、中国で暮らす日本人とおしゃべりしていて、同調させようとする圧力を感じることはありません。
この「変な自分」が「変」なままでも、サラリと受け流してくれる雰囲気が日本にはありません。
変な自分をほっておいてくれる環境が、中国にある。それが好きでもないのに中国に留まっている理由なのでしょう。
ですから、もし変な自分をさらけ出してしまっても、干渉せずにいてくれるのであれば、日本でも楽しく暮らせるのだろうと思います。
それと同時に、自分も他の人の振る舞いに過干渉しないようにと思ったりもします。
空気を読むことを要求されるのは嫌なくせに、人には察してほしいと思ったり、気を遣ってほしいと願うのは、ただのわがままです。
それで、倫理的に問題がなければオールOKな気持ちを持ちたいなと思ったりしました。
今日も最後まで読んでくださりありがとうございます。
また明日!
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