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デモクラシーの機能不全-山田遼志『Waiter』(2013)

はじめに

 ここ数日、山田遼志監督(以下、敬称略)の作品を立て続けに鑑賞した。本稿では、そのうち、短編アニメーション作品”Waiter”(2013)について記す。

 山田は、2022年末にW杯を盛り上げたKing Gnuの"Stardom"のMVを担当する等、近時注目を集めているアニメーターである。しかし、抽象度の高い作品が多いということなのか、鑑賞者の解釈・言語化能力が低いということなのかは不明であるが、youtubeのコメント等は、表層的なものが多かったように感じた。他方、アニメーションの専門家による批評のいくつかは、専門用語が駆使される等、筆者を含むアートを専門としない「一般人」を寄せ付けず、また、作品の内在的な理解、作品と社会の関係についての言及が少なく、むしろ批評の書き手側が社会や「一般人」と作品の距離を遠ざけようとしているようにも感じられた。

 芸術や文化は、社会構造、とりわけ政治politics、デモクラシー、法(*1)、そしてそこで成り立つ表現の自由といった秩序のもとで発展してきた以上、芸術や文化が閉じた空間でのみ消費されることは、芸術や文化という分野を行き詰まらせることにはなりはしないか。翻って、この社会を死に至らしめるのではないか。

 本稿は、以上のような問題意識に基づき、「一般人」が作品を批評(critique(*2))することによって、芸術や作品と文化を架橋しようという、ささやかな試みであり、一つのエールである。むろん、この試みも他者によるcritiqueの対象となるべきものである。

 なお、筆者自身のバックグラウンドや、「良い作品」とは何かについての考え等は、必要な限度で言及するが、詳細は、別稿を予定している。

 また、作品をcritiqueするためには、内容に触れざるを得ないため、当然「ネタバレ」も含まれることとなる。そのため、未鑑賞の読者は、まず、作品を鑑賞することを強く推奨する。

*1 木庭顕『誰のために法は生まれた』290~304頁(朝日出版社,2018)
*2 木庭顕『クリティック再建のために』20~51頁(講談社,2022)



1.本作品の内容

(1)概要

 ”Waiter”は、日本のデモクラシーが機能不全となっている様子を描いている「良い作品」である。「良い作品」とは、色々考えられるものの、①作者が表現したいメッセージが説得的(一義的)に読み取れるかどうかと、②そのメッセージに解釈の余地が豊富である(多義的)かどうかという矛盾した2つの要素を含む作品であると、さしあたり理解している。

 まず、本作品の全体構造は、4つの場面に明確に分かれる。順に「起」・「承」・「転」・「結」と呼ぶこととする。その中で、「起」・「承」・「結」は、都市の経済社会を描く。残りの「転」は、同じく都市を描くが、政治社会を取り上げている。以下で、ストーリに沿いながら、筆者なりの解釈を示す。

(2)起

 「起」は、イントロダクションに当たる部分であり、主要な社会構造が描かれる。

 都市には、スーツを着た人間が暮らしている。ここには、2つのタイプの人間、すなわち、貴族(政治的階層、お金持ち)と労働者(古代ローマでいう平民または奴隷、従者)がいることが明確に描かれている。

 他方、都市に似つかわしくないbarbarian(野蛮人、バルバロイ)が、都市の外側の世界から、貴族が入れるようなこの店にやってくる。つまり、都市の外側に豊かな「領域」が広がっていることが示唆されている。barbarianは、都市の人間とは「常識common sense」を共有しておらず、暴力の原理で動いている。主人公であるWaiterは、どのタイプの人間なのか。スーツを着ていることから明確なように、都市の人間であるが、当然貴族ではない。

(3)承

 「承」では、主人公が仕事から解き放たれ、都市を自由に歩き回ることになる。ウェイターである主人公が働く場所は、繁華街なので都市の中心部、経済活動の中心である「市場」である。

 「市場」には酒と女が溢れている。人間の欲望に直結し、精神による身体のコントロールを不能にする象徴的な存在である。そこで主人公は、一人の水商売の女と出会い、愛し合う。当然、女は、主人公と同等の労働者階級である。ここに、フランス革命の3大理念「自由」「平等」「友愛(連帯)」が揃う。ここについに、デモクラシー(政治)は成立した!
 ……かに見える。

 ところが、この酔っ払った状態の主人公や水商売の女という描写が、不吉な予感を感じさせる。これは、真実の愛なのか?そもそも、愛とは何か?視聴者は考えなければならない。「愛」というものが、かけがえのないものを愛す「横」の関係であるとするならば、カネや暴力の原理による「縦」関係とは異なるはずである。では、二人の関係は、「縦」なのか、「横」なのか。この二人の愛の成否に、デモクラシーの成否がかかっているのである。

 一方、都市の中心部にも、barbarianが流入してくる。彼らは、まさにホッブズが『市民論De Cive』で述べた「万人の万人による闘争状態」(*3)であり、これが、人間の自然状態とされる。政治やデモクラシー、法は、人間の自然状態(暴力)を言語によって克服するためのツールであって、デモクラシーの反対概念がここで登場した。

 それでは、主人公は、デモクラシーと暴力のどちらを選択するのか。主人公は、ためらいもなく、暴力を選択する。しかも、その過程で主人公は、女を踏み台にするのである。かけがえのない女は犠牲となった。愛は幻想であった。デモクラシーは成立するかに見えて雲散霧消した。当然の帰結として、スーツを着た都市民である主人公は、領域側に行っても、生きていくことはできない。

 なぜ、主人公は、領域で生きていくことができないか。それは、酩酊して足腰がふらふらだからである。精神が身体をコントロールしていないし、そもそも身体も「地に足がついていない」のである。領域側の人間、barbarianは、土地という基盤があるからこそ足腰はしっかりしている。土地は生産、再生産の基盤であって、次世代を育むために必須なのである。「再生産」の象徴である卵は、むなしくもここで落下する。これは夢か現実か?
 そして暗転を迎える。

(4)転

 「転」では、主人公は、政治社会へ迷い込む。今度は、服を着ているが、のっぺらぼうの大量の人間たちが整列している。主人公は、話しかけるが彼らからは反応が返ってこない。線の細い政治家の言論を、のっぺらぼうたちは、右から左へ受け入れていく。政治社会であるはずなのに、会話や議論が成り立たないのである。自由で独立の個人が議論をする「政治」の基盤が存在しないのである。

 ここで、「危機」が発生する。誰かが、荒波を超える生贄となってハンドルを回さないといけないのである。一人を犠牲にして皆が助かろうという、デモクラシーとはかけ離れた光景が広がる。しかし、これは単なるアニメーションである。フィクションである…。いや、我々は、この光景を近くで見ていないだろうか。そう、東洋の島国でいつか存在した光景である。誰かが命をかけて、ハンドルを回して、蒸気が排出される。紛れもなく、福島原発での作業員のベントの光景である。

 何人もの勇敢な人間がハンドルを回す。まずは右に。次は左に。また、右に。政治的決定は、議論を経ていないため、その指示は有効ではない。そして、この無意味な指示を行うのは、政治家である。しかし、その政治家も単なるエージェントである。指示をする本人は、また別に存在する構造なのである。

 最後に、主人公もハンドルを回すよう指示されるが、主人公は辿り着くことすらできない。しかし、主人公は助かり、元の都市の世界に戻ることとなる。ここに束の間の希望が見出される。失敗したかのように見えて、主人公は、助かったのである。

 他の作業員との差は何か。主人公は一人だけ自由な意思や思考力を持っている。もしも、大人数が犠牲になったとしても、一人のかけがえのない自由を守ることが必要なのではないか。本作品には、このようなメッセージを込められているのではないか。

(5)結

 いよいよ、「結」で、主人公は、都市に戻る。ところが、光の差しこまない深海に潜っているかのようなサウンドが鳴り響く。戻った先の都市は、光の差し込まない深海なのである。

 都市の中心にある光が差しこまないせいで枯れた木には、多くの労働者たちの死体が吊り下がっている。「起」で登場した従者が、他の労働者を搾り取る。主人公も他の労働者を搾り取る。経済社会でよく見られる構図である。
 今度は、金持ちがオープンカーでやってきて、休んでいた自分の従者を車のマフラーとして働かせる。従者には自由はない。金持ちは、搾り取る能力が、桁違いである。
ここで、「承」で落下した卵の結末を視聴者は知る。卵は割れて泣いている。新しい命の誕生直前で孵化しないからである。
金持ちの車は走り出す。従者は部品である。ところが、従者を犠牲にして走る車のタイヤは取れて、主人公の前に転がってくる。

 つまり、金持ちが迎える運命もまた暗闇なのである。

*3 ホッブズ(本田裕志訳)『市民論』44頁(京都大学出版会,2008)

2.感想

 ストーリーに沿って、見てきたように、本作品は、デモクラシーの基盤である政治システムの機能不全を描く悲劇作品である。自由な個人、他者との連帯、言語によるコミュニケーションの不在が裏側から示唆されている。

 そもそも、本作品は、セリフ等の言語が用いられていないアニメーション作品である。したがって、当然、言語を媒介とする「小説」や「演劇」と異なり、直接、鑑賞者の五感に作用する「絵画」に類似する性質を持つはずである。つまり、「良い作品」の条件の内、メッセージの多義性はあるとしても、一義性には欠けるはずである。

 しかしながら、以下で述べるように、①構造把握と提示、②比喩的な表現方法の巧みさによって、作者のメッセージは、説得力を増しているように思える。

 まず、都市と領域の二元構造や、都市における政治と経済の両者を視野に入れており、社会全体の構造把握を示そうとする。「起」において全体の構造を明快に示すことによって視聴者に作品を読み解くコードを提供しているのである。

 次に、比喩的な表現方法の選択も優れている。例えば、スーツや、卵、コーヒー……それぞれに重要な意味が込められている。このような比喩表現が、山田作品を通しての大きな魅力である。
 スーツや、卵は、他の山田作品でも登場する。スーツは、匿名性(*4)や集団、組織を示すアイコンであるし、卵は再生産を示すことは、語るまでもないであろう。コーヒーは、歴史的にも植民地主義と密接に関わるし、これを金持ちが嗜んでいる様子を描くことによって、読者は作品の背後にある社会構造を想像することができる。特にハンドルを回すという描写は、卓越している。2011年3月に日本に住んでいた人間に、あの時のイメージを喚起する。

 しかし、政治システムの機能不全への「処方箋」の描写が薄い点で不満が残ることを指摘せねばならない。

 この作品が「悲劇」でない結末を迎える(=デモクラシーを成立させる)ためには、主人公が誰かかけがえのない存在と連帯関係を成立させなければならない。

 関係を結ぶ対象としてあり得るのは、女か従者である。しかし、従者は起に登場した後、結まで登場しない。そうすると、本作品のターニングポイントは、承で主人公が女を犠牲にした箇所である。

 既に述べた解釈では、女をかけがえのない存在、連帯を成立し得る存在として解釈を行った。しかし、女の側も水商売の人間であり、そもそも連帯が成立し得る関係の人間として描かれていないようにも読める。主人公が女を犠牲にしているにもかかわらず、悲惨さがないのである。実際に、主人公は、女と言葉を交わすこともないし、犠牲にする際にも躊躇いを見せない。また、女のその後についても描写はない。結で木にぶら下がっているのかもしれないが、他の労働者との区別はつかない。女は、終始、かけがえのない存在ではない。そうだとすると、山田は、①「処方箋がない」ことを描いているか、②「処方箋の存在に気付けていない」のどちらかである。

 後者であるというのがさしあたりの本稿の結論である。上記の推測を支えるのが、政治と経済の両者が、全く別世界として描かれている点である。デモクラシーにおいて、両者は密接に関連し、同根の問題を抱えている。経済の中心を占める市場や法人を動かすメカニズムもまた「政治システム」なのである。自由で独立の個人が、言語による議論を通じて決定を行い、それに皆が従う原理であり、信用を創出するシステムである。例えば、信用取引や金融市場、コーポレートガバナンスは、まさに「政治の成立」の場面の議論なのである。本作品は、この両者の連関について、意識的でないと思われる。そうでなければ、自由で平等な個人間のコミュニケーションについての示唆があるはずである。

 もっとも、この点に関して、後の"Hunter"(2017)や"Philip"(2020)で意識の萌芽が見えなくはないが、同様の指摘が可能であるように思う。これらの作品についても他日に記したいと考えている。

*4 「スーツやサングラスといったアイテムは、自分の過去の作品にも多く登場させていて、身につけさせることで”匿名的”になると考えているんです。僕の中で、”モブ(=大衆)”を示す象徴です。」

2022年のインタビュー記事
https://fabric-tokyo.com/story/hatara-ku/yamada-ryoji

以下、続きの文章はないですが、良いと思った方がいれば、有料エリアを設定しておきますので、購入頂ければ幸いです。

※2023年2月10日 文意不明箇所を修正

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