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心からではない言葉の位置(『愚者のエンドロール』より)

日々、心からではない言葉を使う

 おすすめしてくれたこの本はおもしろかった、ありがとう。そんな言葉を発するとき、私はどれほど本当のことを言っているだろうか。普段から親しく、もしくは本の評価に妥協を許さない相手でない限り、誰であってもそう言うかもしれない。たとえ内心、期待したほどではなかったなどと思っていようとも。

 しかし、非常に個人的ではあるけれど、よほどのものでない限り私は読んだ本をつまらないとは言わない。どんな本にだって私の知らない知識や表現が必ず含まれている。一度読み切った本でさえ見つかるのだから、初めて読む本なんてなおさらだ。知らないことを知ることは楽しい。知らないしわからないからつまらない、と言うのも誠意に欠ける。

 だから、おすすめしてくれたこの本はつまらなかった、残念だ。そんな言葉はまず発せられない。おもしろかったかと問われれば疑問符を付けざるを得ないとしても、つまらなかったかと言われればそんなことはない。けれど、どこそこの表現が卓越していた、それを以て全体がおもしろいとは言えないが読んだ価値があった、などといちいち言わない。これを端的に伝えるのは難しい。すると一つの手法として、心からの言葉ではないけれどおもしろかったと言うことにする。

 心からではない、という表現は、ではその言葉はどこからやってきたのかという問いを残す。嘘と言い切らぬのであれば話者は一篇の真実を含めようとしている・・・・・・・・・と捉えて差し支えないだろう。根拠のない言葉ではないのだ。ただ、それが心からではないだけで。

 私は本当のことを言っていない。しかし、嘘をついているつもりもない。おもしろいとつまらないの間にはXY軸的に広がる数多の評価地点があって、しかし相手が曖昧な表現を求めてはいないことも承知しているので、直線の両端で二極化された言葉のうちから片方を選び取るだけなのだ。

折木は試していた

 入須と折木の最後のやり取りがずっと気になっている。以下にその部分を抜粋する。

 熱意も、自信も、独善も、才能でさえも客観的には意味を失う。入須は俺を躍らせるためだけ・・に俺の才能を持ち上げた。それは有効だった。俺は入須を満足させる創作をした。
「誰でも自分を自覚すべきだといったあの言葉も、嘘ですか!」
 ……これほど強く言っても、入須は動じない。悪びれない。恥じない。
 沈黙の中に、俺は下らないことを思う。
「女帝」という渾名は、実にふさわしい。俺は里志の言葉を思い出す。入須に近づく者はみなその手駒になる。ひとをそう扱って悔いない姿勢こそ、女帝にはふさわしい。彼女は美しかった。
 抑揚も情感も乏しく、いよいよ冷厳に、入須は答える。
「心からの言葉ではない。それを嘘と呼ぶのは、君の自由よ」
 視線が絡み合う。
 無言。
 ……俺は、自分が笑うのを知った。
 そして心からこう言うのだ。
「それを聞いて、安心しました」

米澤穂信『愚者のエンドロール』七 打ち上げには行かない

 入須は本当とも嘘とも言わず、なぜ「心からの言葉ではない」という曖昧な表現で返したのか。そして、折木はなぜ「安心しました」と「心から」言えたのか。

 この部分、というより折木が入須を問い詰める一連の場面は、実は入須が「自覚すべき」という言葉を本当はどう思っているのか、という答え合わせだったのではないかと思う。

 入須は折木に「君は特別よ」と言い、折木の自己評価を揺らがせて自身の言葉、外部からの評価を信じさせた。折木に自身が客観的事実として探偵的才能の持ち主だと自覚させたのだ。

 するとどうだろう、折木は全くそのとおりに振る舞った。「あの謎のキーになるのは言うまでもなく密室です」この台詞を聞いて入須は口元をゆるめる。折木がまさに探偵然として謎解きを始めたからだ。

 このように、折木は入須にこうと与えられた役割に従っていったのだ。

 しかし、それは折木だけの話だろうか。千反田えるは事件の運び屋として、三人の探偵志願者は茶番劇の役者として、江波倉子は寡黙な案内役として、そして、入須冬実にもまた与えられた役割はあり、誰よりも入須自身がそれを自覚していたのではないだろうか。

 ここで大切なのは入須の役割は変化をしていることだ。最初は事件の(卓越した)依頼人だった。それが次は推理を評価する裁判官となった。そうして最後に、実はこの推理劇を一段上から操っている為政者であることが発覚した。入須は最初から為政者としての女帝だったのではない。折木の理解進度に合わせて、依頼者として、裁判官として、自らの役割を着替えてきたのだ。これを無自覚にできようはずがない。

 折木が入須を問い詰める場面、ここで初めて入須は為政者としての姿を現す。

 入須は自らが女帝と呼ばれていることを当然知っているし、そのように振る舞うことを望まれていることを自覚している。では女帝としての振る舞いとはなにか。それはひとを手駒として扱って悔いない姿勢だ。この姿勢こそ女帝にふさわしい、と折木は思う。

 つまり、折木は(おそらく無意識に)入須を試していた。入須がその姿勢を崩すのか、崩さないのか。

彼女は女帝として君臨する

 さて、そのように女帝としての姿勢の問いを突き付けられた入須が、「あの言葉は本当よ」や「あの言葉は嘘だったの」と答えられるだろうか。

 自分を自覚すべきだということに、恐らく偽りはない。事実、入須は周囲からの役割に求められてそう振る舞っている。入須が女帝としての自らに自覚的であるからこそだ。

 しかし、折木が自身は探偵だという誤った自覚によって成果を上げたのも事実だ。本来、折木に期待したのは推理作家としての役割であったのに、躍らせるためここの認識をすり替えたのだ。つまり、自覚と役割と成果に統一性は必要ない。自覚と役割が一致していなくても、求められる成果を上げることはできる。

 さらに、本当に「誰でも」自分を自覚すべきだろうか。自分が何者であるか、何を成し得、何を成し得ないのか。そのような可能性と不可能性は、ある一点での自覚に束縛され得るものではない。

 一時間の映画の脚本を「漫画を少し描いたことがある」本郷に任せるのは、伊原が眉を顰めるほど無茶な要求だった。入須にすれば本郷が自分を自覚していれば、クラスを満足させる脚本は書けないと断言できたはずだ。けれど、場に流されて引き受けたばかりに今回の騒動が起こった。しかし、もし本郷が一念発起して路線を変え、殺人に殺人が重なるスリリングな脚本を仕上げてきたら。フィクションにたらればを持ち込むほど無粋なことはないけれど、自覚に縛られているとそのような可能性すら切り捨てられてしまう。

 そういった可能性を入須が考慮していれば、だから本当とも言えなかった。入須にとってあの言葉には本当と嘘の間に無数に存在する評価地点がいくつも込められているのだ。

 そして最後に、なにより入須は女帝として冷厳でなければならない。折木の言葉を単に肯定しても否定しても、それは折木の基準に寄り添うことになる。入須は突き放さなければいけなかった。折木の持ち出した「真偽」という基準を破棄して入須自身の基準を押し付けなければいけない。

「心からの言葉ではない。それを嘘と呼ぶのは、君の自由よ」

同上

 入須は真偽の判断は自由にしろと言う。自身にその真偽は無関係だと、折木がどのように判断しようとも女帝たるこの身には無用だと、入須は見事に折木を突き放した。折木もそのことに気がついた。もしかすると「あの言葉は嘘だった。君は私にいいように使われただけ。とても便利な手駒だったわ」などと残酷に切り捨てられることを期待していたかもしれない。しかし、結果は想像以上だった。その台詞には為政者の威厳の裏に誠実さが秘められていた。

 入須は自らの態度を以て言葉の真正を証明した。まさに最後まで女帝であったのだ。

 だからこそ、折木は「安心しました」と心から言えたのだろう。

それは小さな町の小さなできごとだった

 先日、高山市を訪れた。小さな町だった。周囲を連峰に囲まれて冬ともなれば雪に深く閉ざされるのだろう。人々は肩を寄せ合い生きている。そんな中で、やはり入須のような人間はその中で選び取るべきものがある。クラスという自らの庭を強くしなければいけない。

 責務を見事に果たした厳然さはどれほど思ってもやはり、美しい。

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