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2022.8.9 雑文(小旅行Ⅱ)

 そのゲストハウスは仮に四季と呼んでおこう。居宅から歩いて20分ほど、お城の堀そばに建つもとは町家だった場所だ。太陽が高々と照りつける午後三時、とにかく暑かった。先日ひどい雨がここいら一帯を襲って深い爪痕を残していったが、その日はそんなことを忘れるほどの晴天だった。

 今回は友人がひとり付き合ってくれた。

 暖簾をくぐって土間に入ると左手には古しい塗り壁の下に自転車が四台並び、右手には深い鼈甲色の帯戸が閉められている。奥に進むと土間は途切れ、硝子戸の向こうに小さなラウンジが見える。帯戸が途切れ階段のある板の間が姿を現した。フロントになっている。
 ラウンジからオーナーがやってきた。チェックインをすませて館内の案内を受けた。ラウンジは対面キッチン式のリビングダイニングのようになっていて、掃き出し窓から坪庭が眺められる。コーヒーやほうじ茶は自由に入れてよいとのことだった。ラウンジの隣の部屋は、隣室といってもガラス戸で緩やかに繋がっているのだけど、洗面台があり、洗濯機があり、坪庭の脇から奥にはトイレとシャワー室が並んだ。シャワー室のさらに奥、ラウンジから眺めれば坪庭の向こうはオーナー家族の居宅スペースだということだった。小さなお子さんが二人、いるらしい。
 フロントの板の間は見上げると大小幾本の梁が交差する吹き抜けで、小さな天窓から柔らかく陽射しが差しこんでいる。帯戸は八畳ほどの畳敷きに繋がっていて、卓袱台や座布団の配されたそこはちょうど表通りに面していて、多分この建物で最も外の気配が感じ取れる部屋だった。かつては商家の商い場として使われていたのだろう。

 短い階段を上る。廊下の目の前には抱きかかえられるほど太い梁が二本交差している。煤けた黒の梁だ。かつて土間には竈があった。天窓も煮炊きの煙を逃がす役割があったとか。生活の匂いがした。いい味わいだ。
 客室は表通り側に二部屋、坪庭側に二部屋あって、私はその中から一番よいと思われる部屋を予約した。よい、というのは眺望のことであり、外との途切れ具合のことだった。案内された部屋は果たして、私の希望にかなった部屋だった。

 床にも寝台にも北部半島のヒバをふんだんに用いたことがコンセプトの部屋で、年代物の手織りのラグ、オーク材のテーブル、真っ白な壁天井。そして、磨りガラスを開けると目下には坪庭が見下ろせる。左手は瓦屋根が奥の棟へと続いている。窓枠は手入れはしたろうが、閉めても隙間が開く。こういったところは更新するか否か迷った箇所らしかった。そのまま残しておいてもらってよかったと思う。

 静かな部屋だ。窓を通して外の気配は聞こえるが、この部屋にあるのは私と友人だけでそれで十分だった。壁に本のページが留められて「肝心なことは目では見えない」と語っていた。川辺の丸い小石がL字フックで掛けられている。天井の真ん中には一筋、細い年経た梁が顔を出している。散漫な時間や気配がこの部屋ではある一方向性を帯びて、一つ一つが微細な線となって遅く遅く流れてゆく。それは私にとって安心だった。あらゆる方向から押し寄せる時間や気配にはどれほど警戒してもしきれない。気が立って気が立って、すっかり疲れてしまっていた。一度自身に流れ込むものを限界まで絞って、感覚を整えなければいけないと思っていた。この部屋はまさに最適な場所だった。

 部屋の館内案内に建物のこだわりがまとめられていたので、友人と二人であちこちを見て回った。それから友人とは一旦別れ、私は一人ラウンジや畳敷きで本を読んだ。今はE.ブロンテの『嵐が丘』を読んでいる。近所の古本屋の主人から勧められた。
 ラウンジには肘掛け椅子が三脚ほど配されていて、私は坪庭を背にしてその明かりを頼りに読み進めた。サイドテーブルにはドリップしたコーヒーを置いた。こういう形式的な行為がまた、心地よかった。

 一時間ほどしたら眠気に誘われ、日中の暑さに当てられた、目覚ましをかけて部屋で横になった。しかし目を覚ますと、十分ほどの仮眠のつもりが一時間も寝ていた。下に下りてコーヒーを飲んでいると友人が帰ってきた。
 夕食は少し歩いて川近くの蕎麦を食べた。友人は温かいそばを頼み、思ったより温まってしまったと苦笑いしていた。

 夕食後は川のあたりを散策した。川床が設けられて賑やかな声が聞こえた。対岸から眺めたが、せわしなく人が行き来して、これもまた夏の一つだと思った。川沿いも大して涼しくはない。コンクリートの堤は二十時を過ぎたくらいでも寄り掛かっていられないほど暑かった。

 川上のほうからなにか、盆踊りでもしているような、唄のような賑わいが聞こえていた。友人にもうしばらく付き合ってくれと、そちらへ足を向けた。バス停前の交番横から路地へと入り込む。かつてこの一帯は茶屋街だった。今でも一筋はそういった風情の通りが保存され、観光の目玉として売り出されている。その奥には小高い山があって藩政時代に城下中の寺院がそちらに集められた。この町には東西にそういった寺院群がある。こちらは東山寺院群と呼んだり、卯辰山寺院群と呼んだりしている。唄はそちらから聞こえていたのだ。
 シマンロクセンニチといい、四万六千日と書く。

(この2つの動画でだいたいわかる)

 浅草寺のほおずき市が有名なようだが、金沢の観音院でも毎年行われている。旧暦の7月10日に参詣すると4万6000日分の功徳がある……というなんとも有難い日。なんとも効率的な、と罰当たりな言葉が口をついてしまった。今でこそ本堂を小さく一周するだけだが、コロナ前まではご本尊の後ろまでずらっと仏像が並び、そのひとつひとつに手を合わせて回る。本当に小さな時分に一度、連れられたことがある。冷房をつけずに開け放したお堂の中では護摩の焚き上げも行われた、大変暑かった。そうか、20年来の参詣なのだ。

 汗だくになりながら四季に戻った。ラウンジで水を飲みながら、なにを急ぐこともなく、友人からゲームイベントの話を聞いた。それは育成ゲームなのだが、時間が進まないタイプの育成ゲームだ。つまり、人間性的な成長をストーリーの主軸としつつもシステム的に肉体的(年齢的)な成長は停められている。名探偵コナンのようなものだ(あれで彼はまだ小学一年生のままらしいから、混乱してしまう)。
 そのイベントで示されたのは、プレイヤーのゲーム内人格は「変わらないもの」の行く先を気にかけ、育成対象のキャラクターたちは「変わるもの」の行く先を気にかけている、ということだった。そういう話だったと思う……自信がない。ただ、システム上の都合によって成長を停められたキャラクターたちが自身の更なる変化、更なる未来を望んでいると提示したのであれば、それはプレイヤーよりも運営側が重く受け止めなければいけないはずだ、というのが友人の話。本当か? 他人の言葉を改めて書き起こすのは誤謬が恐ろしい。
 そうするとゲームシステム自体を大幅に変えなければいけないだろうな、と思った。変える? どんなふうに? 全く想像できない。
 話していると奥からオーナーと男の子がふたりやってきた。笑顔で手を振ると引き戸を閉められた。どうにも小さな子には嫌われやすい。

 夜も更け、部屋に上がって各々シャワーを浴び、ベッドに入った。翌日はチェックアウトしてから朝食を食べることにした。
 ベッドの中でいろいろ考えた。こんな家に住みたい、という妄想もその一つだった。ゲストハウスをしたいわけではない。町家住まいというのが大層羨ましかった。現代の高気密高断熱の高性能な建物は期待できない、夏は暑く冬は寒く、住まいするには根性と気合が必要だ、とオーナーは話してくれた。修繕にも大変な手間と金額がかかった。なんと建物の傾きから直したらしい。そんな生活、私は耐えられるだろうか。そんな資金、私は準備できるだろうか。
 夢を現実に起こそうとすると、その夢が大きく理想的であればあるほど難しい。願ったなら叶えればよい、という言葉にも限度がある。今の私の夢はあといくつ叶えることができるだろうか。
 ゲームの話もそうだった。現実に即するのは難しい、というより意味がない。それでは現実の焼き直しを体験しているだけだからだ。ゲームとは、とにかく友人が話していたゲームはフィクションだ。フィクションに富んでいるからこそ奥深さもある。それを現実に沿わせる? 現実がそれほど偉いのか。理想やフィクションは虚構であるから無為なのか。

 どのように着地させるか、という考え方もできる。どのように擦り合わせるか。現実と虚構を。これもあまり、好きな考え方ではないが。

 翌日、私たちは宿で一番遅く起き、一番遅くにチェックアウトした。

 おおよその目的は達せられた。よい休日だった。

 見出しはみんなのフォトギャラリーより、おくちはるさまのくまのイラストをお借りしました。ありがとうございます。