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溶けない真夏の夜のビビンバ

どうもこんばんは。眠れない夜を過ごしている私が私のために描く未来のノートです。私が今日も夜空を見上げる時、私はいつも思います。星も私を見ることになってしまい、大変迷惑しているのだろう……。そんな陰鬱な気分を乗せた筆踊るままに描くnoteをよければ最後まで読んでいってください。願わくばこれを読み切る頃には夢があなたを包んでいることを。



【鳴かぬ夜に蝉の色】

暑さ故の酔いも冷めやまぬ夜10時に、ほんの少しだけ突拍子もないことを考える。人生における幸福とは。しょうもない。

元来人間というものは、ひいてはヒトという生き物は何を目指しているのだろうか。繁殖という崇高なる生物としての目的ならば、80億も増え、地球のリソースを無限に食い荒らすことで達成されているではないか。

「生き物」

生物とは明確に違う。生物とは動植物関係なく、命あるものを指す時に使われる。そして生き物とは、主に動物を指すのに使われる。

ならば人は生物でもあり生き物でもあるが、人は植物のように風になびき、光を浴びて揺蕩うことは出来ない。人はいつでもその両の足で立っているではないか。

生き物としてのヒトは何を目指しているのだろうか。今大学生たる私個人の目的といえば、「就活」「ガクチカ」「司法試験」「HSK」……エトセトラエトセトラ。薄くはあるが「彼女作り」なるものもやってみたくはある。

個人の目的は本当に人それぞれだ。それはもうベクトルが180°違うものもある。なれどヒトは「幸福」の2文字を追求していることに変わりはないだろう。

古来より、それもお釈迦様がよちよち歩きで天上天下唯我独尊などとほざいていた時から「幸福」に魅入られ、己を滅ぼしてまでその正体を探究する者がいた。

が、ならばクロマニョン人に幸福の概念はあったのだろうか。いつからヒトは「幸福」を覚え、人になったのだろうか。


考えるのがめんどくさい。そんなものは人文学者にでもやらせておけ。京都大学には掃いて捨てるほどいるだろう。

そんな幸福への目覚めは置いておいて、私はもっと低俗なことを話したいのだ。人々全ての「幸福」を叶えられるモノ───例えば神───が居たとしたら、人はヒトに戻るのか、ということである。

私は幸福全てが与えられ、つまり予備試験も司法試験も1発合格、四大に入社、バリバリ働きズンドコ出世、トントン拍子に結婚、ラブリーチャーミングな娘をもうけ、衣食に困ることなく、挙句の果てには裁判官を経由して議員、そして総理大臣となり、稀代の有能総理として祀り上げられたならば、私はどうなるのだろうか。富名声権力の全てを掌握した私が次に目指すのは、不老不死になるのだろうか。

では仮に不老不死も医学の進歩により達成させられたとしよう。ついでに南海トラフもなんやかんやで大丈夫になったとしよう。私は文字通りに全てを持ち、世界を意のままにし、全人類が私を崇拝し、私を至上とし、私に敬服したとしよう。

もはやその私は私では無い。かつて欲に塗れていた肉塊である。そこにあるだけの亡霊である。

人とは全て叶えられぬからこそ人であり、悔やみ後悔し嘆き歪むからこそヒト足り得ないのだ。糞尿の詰まった肉袋が、欲を我が芯として骨を成しその両の足を地面に突き立てるのだ。

つまり何が言いたいかと言うと、私は現状に満足しないために今日も一日を非生産的に送ったのだ。私が努力してみろ。全てを叶えてしまうのだ。

【トンビが赤べこを産む】

アニメは先の展開を知らない作品こそ面白い。

アニメは己の意思で加速したりできる。倍速機能であれよあれよと24分のものを16分に出来る。登場人物がびっくら仰天の速度で口を動かし、手を動かし、泣いて笑う。そこに付随する全ての刺激を削ぎ落として。

二次元に造詣が深い人と話す時にアニメを話題にできる人は強い。有名どころではないアニメを知っていれば、話を合わせることもできるだろう。私もそうなりたいものだが、そもそも有名どころすら知らなかったり、食わず嫌いが多すぎてそれどころでは無い。

私がまともにアニメというものに触れたのは中学2年生ぐらいの時だ。背景は諸々カットするが、SiMの入っていないスマホにAmazonプライムビデオのアプリをダウンロードし、それをこっそりと塾の自習室に持ち込んで見ていたのだ。

もはや何を見ていたのかはほぼ覚えていないが、そこそこ面白く、そこそこ退屈なアニメだったことは覚えている。

四角い埋込み型のよくあるエアコンとキイキイ鳴る椅子。私1人だけの空間にアニメ鑑賞という目的を貼り付けた非日常さが、私の多動症を加速させた。

以来私は落ち着いてアニメを見ることが出来ない。片手でノートに落書きでもしながら、Twitterを弄り、ガムを噛んで、15分ごとに鳴りもしないLINEを開く。

この夏は、親の忙しそうな声を聴きながらのほほんとアニメを見ている。外の焼け付く空気とは無縁の環境で時間をただアニメにつぎ込む。ただ受験と言うだけで何故かアニメを見る気が起きなかったのを取り戻すように。

さて本題に入ろう。

漫画は優秀な媒体だ。私が今も苦心して状況を文字起こしし伝えようとする必要はなく、ただ画力と少なめの文字で伏線まで貼りつつ伝えられる。漫画はどんな速度で読んでもいいし、気になったらパラパラっと捲るだけで前の風景に戻れる。

アニメはどうだろうか。アニメはなぜか巻き戻すことに抵抗を覚える。それはアニメーターが命を削って描いた作品にケチをつける行為だと無意識に考えたからかもしれない。全く違う理由で、ただめんどくさいだけかもしれない。

とにかくアニメは与えられた速度で物語が進行し、我々はそれに従いたくなるのだ。監督がアニメによる効果を勘案した上でその構成と速度にしているのだから、これを早送りにすることはあまり褒められたものでは無いし、なんなら飛ばし飛ばし見る様な事は極刑ものだろう。

盆踊りの音頭を200ビート/分にしたら一体どうなる。アンサー、老人が死ぬ。あら素晴らしいこと! ではない。

そういえばこの夏は盆踊りにまだ触れていない。あのスピーカーから放たれる音に合わせて皆動くのだから、アラビアの蛇使い以上のよっぽどすごい人が作ったのだろう。

名古屋特有のダンシングヒーローを背景に流しつつ、アニメについて話し続けよう。

それこそあくびの出る話だが、内容がわかっているアニメを楽しむには、映像美を楽しむことが大分な役割を果たしている。鬼滅の刃であれば、炭十郎のヒノカミカグラの演出がいいだの、大人化ねづこが欲情を掻き立てるだの、そこら辺が同じストーリーを再び歩むためのモチヴェーションになっている。

はなから知らない物語を見る時は映像美なんかよりもそのストーリーの精巧性に感動するものだ。アニメストアなんかで原作を見たことあるアニメとないアニメが並べられた時、あるアニメを選んだならば、まるで1度食べたジェームズキッチンのメニューをもう一度食べて、やっぱり食べたことない方にすればよかったなー、と思うようなものである。

これは私個人の趣味嗜好なのだが、ジェームズキッチンでハンバーグに1100円を使うぐらいなら吉野家とか松屋で牛皿定食に1100円使った方が満足感が高い。なぜだろうか。やはり紅しょうが使い放題が影響しているかもしれない。紅しょうがは入れれば入れるほど幸せになる。間違いない。


【慿】

これは私の小さな頃のお話なのだが、私はヤケにジンクスに拘っていた。

空手道場での話なのだが、フルコンタクト(防具無し)の組手がしょっちゅうあり、私は痛いのは嫌だったのであまり好きではなかった。

私はそこまで弱い方ではなかったが、明らかに勝てない相手が何人かいた。その子(Aとしよう)は小学生にしては身長は高く、身体の発育は中学生と言われても分からないほどであった。

彼が誰かと組手をしている時、私は床板をじっと見ていた。床板は複数の細長い板が組み合わさって出来たものなのだが、その細長い板の先にある人の「強さ」を私はトレースすることができると勝手に思っていた。

よし、今日は目の前にAくんが座ってる。僕もこれで強くなったぞ! みたいな感じの、幼い子供によくある謎理論を妄想していた。

また空手道場ではなく、中受の日能研に通っていた頃の話だが、「電車よりも自転車で行ったほうがテストの点が高くなる」などのジンクスを勝手に作って、テストの日は雨でも自転車に乗っていた。

今振り返るとただ馬鹿らしい行為だ。今の自分はもはやジンクスも何も無い。ただ目の前に広がる確率の海を泳いでいるだけなのだから。時折身体にまとわりつく海草たる不運に悩みながらも、確率の海をアテもなく泳いでいるのだ。

あとはこのような妄想もしていた。

市営マンションの8階が私の家だったのだが、エレベーターを降りた先でほぼ必ず目に入るすりガラスがある。そのすりガラスには、なぜか必ず肌色の丸っこい頭ぐらいのものがぼんやりと見えていた。

それが私には妙に怖かったのだ。あれは母の頭部に違いない。そんなことを思いながら一目散に我が家に帰り、台所で作業している母を見つけ、その度に安堵していた。

なんとも奇妙な話だ。目の前の人の強さを取り込んだり、乗り物ごときで点が変わったり、ある訳のない妄想に取り憑かれたり……。

多感な時期にこのような様々な突拍子もないことを考える私は、とても面倒な人生を送るだろう。

これだけは妄想ではなく現実だ。

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