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愛なんか、知らない。 第1章⑩怒りのスイッチ

「葵、夏休み、タイに来る?」
「へ?」
 ふいにお母さんに話しかけられて、私はバカっぽい返ししかできなかった。
「語学留学。あっちで、英語を学べるスクールを探しとくから。夏休み中に英語を勉強したほうがいいでしょ?」

 その時、私の中で、何かがプツンと音を立てて切れた。
「行かない」
「え?」
「り、留学なんて行か、行かない。私、行きたくないって、りり留学なんて行かないって、何度も言ったよね?」
 私が思いがけず反論したからか、お母さんは目を丸くして固まってる。

「……何、急に。どうしたのよ? 私は葵のために」
「わ、私のためなんかじゃ、ない。私、せ、生徒会の役員なんて、し、したことない。成績もそんなによくない。絵画のコン、コンクール、大賞とってない。英語の論文なんて、か、書いたことないよ」
 どもりながらでも、何とか、言いたいことは言えてる。でも、だんだん涙声になった。

「おべ、お弁当なんて、一度も作ってくれたこと、ない」
 そこで涙がボロボロと零れ落ちた。
「ちょ、ちょっと葵、何言ってるの」
 お母さんは顔をひきつらせた。
「夕べ、ちょっとケンカしちゃって。もう、みんなの前で変なこと言わないでよ。みんな、信じちゃうでしょ?」
 お母さんは会社の人に向かって、慌てて取り繕ってる。会社の人たちは、みんな「何が起きてるの?」って感じで戸惑っている。

「へ、変なこと言ってるのは、お、お母さんでしょ? わた、私のことなんて、何も考えてないじゃない。タイに行くからおばあちゃんと一緒に暮らしなさいって、わ、私の意見なんて聞かないで」
「ちょっ、いいかげんにしてっ」

 お母さんは、ものすごい力で私を突き飛ばした。仰向けに転びそうになったのを、おばあちゃんが何とか支えてくれた。
「理沙!」
「後藤さん!」
 上司のおじさんが、お母さんを止めた。お母さんは顔を真っ赤にして荒い息をしてる。今まで見たことがないぐらいの、恐い顔。

「娘を突き飛ばすなんて、あんた、どうかしてるっ」
 おばあちゃんが食ってかかると、「うるさいっ、この子はみんなの前で私に恥をかかせたんだからっ」とお母さんは私を指す。

 私は、うわわああんと声を上げて泣き出した。
 こんな大声で、人前で泣くのなんて、何年ぶりだろう。
 高校生なのに、人前で泣くなんて。
 でも、もう止められない。止まらない。
 その場は水を打ったようになって。まわりを行きかう人たちも、何事かとこちらをチラチラ見ている。

「あんたがあまりにもふがいないから、盛って話すしかないんじゃない! 部長のお子さんなんて、超優秀なんだよ? 私立の幼稚園に通って、大学までエスカレーターで、今は一流企業で花形部署にいて。あんたがそれぐらい優秀だったら、私だってこんなこと」

「あんただって、優秀でも何でもないじゃない。中学でも高校でも、生徒会に立候補して落ちてたじゃない。部活で部長になったら、みんなあんたの厳しさについていけなくて辞めちゃって、困り果てた先生から相談受けたの、忘れちゃったの? 大学でミスコンに出た時は、優勝した女の子を陰で泣かして問題になったでしょ?」

「あれ、あれは、あの子は審査員と寝たって噂になってたから」
「とにかくっ、あんたはあっちでもこっちでもトラブル起こして、私がどれだけ頭を下げて回ったか。どんなに言い聞かせても、自分は悪くない、正しいの一点張りで。それも親になったら治るかと思ったけど、自分の娘のことでウソをつくなんて!」
 おばあちゃんがこんなに激しく怒る姿、初めて見た。お母さんは燃えるような目でおばあちゃんを睨んでいる。

「うわあ、課長、それって、毒親ってやつじゃないですか?」
 志村と呼ばれていた男の人が、呆れたように言う。
「課長、そういうところ、ありますよね。新入社員が入ると、必ずマウント取るし。普通に教えればいいだけなのに、『こんなことぐらい、自分の頭で考えなさいよ』とか、いっつも相手を否定するような発言をするって言うか」
「志村、何よ急に。どさくさに紛れて私を責めてんの?」
「いや、責めてないですよ。事実を伝えただけで」
「申し訳ないっ」
 ふいに、部長さんが激しく頭を下げた。

「私が後藤さんにした話が、彼女を追い詰めていたようで……娘さんにこんなつらい想いをさせてたなんて、知らなくて。海外赴任も、てっきりご家族は喜んで送り出してくれるのかと……ちゃんと話を聞かずに、申し訳ありませんでした」
「そんな、理沙が悪いんです。まさか、会社で理沙がそんなことを話しているとは、こちらも思わなくて」
 後ろで、お母さんの部下の人たちは、明らかにみんなドン引きしていた。
 私は涙を止められなくて、えぐえぐ泣いているだけ。

「後藤さんを早く日本に戻すように調整します」
 部長さんはまた頭を下げる。
「ちょ、ちょっ、部長、やめてください! そんなことしなくていいです。私、望んでタイに行くんですから」
「後藤さん」
 部長さんは、お母さんを冷ややかに見た。
「うちの会社は、社長が家族を大事にする主義だってこと、知ってるよね? 従業員の家族も社長は大事に考えていて、家族のために時間を使えって、残業や休日の仕事も禁止してるぐらいだし」
「えっ、そうなの?」
 私とおばあちゃんは同時に声をあげてしまった。
 えっ、じゃあじゃあ、毎日遅くまで仕事をして、休日も出かけてたのは、何だったの? あれは何?

「なん、もしかして、休日も仕事してたのか?」
「……」
 お母さんは気まずそうに顔をそらせる。部長さんは呆れた表情になる。
「取引先の社長さんが、後藤さんは今時熱心だねってやけに褒めていたのは、それか……」
「それは、先方が時間取れるのは土日だけしかない時もあって」

「あのー、今まで何回か、課長が店に来て、閉店後もずっと叱られたって、店長さんたちから話を聞いてて」
 部下の一人が、言いづらそうに口を開く。
「それは、その店の売り上げが全然上がらないから、指導をしに行っていただけで」
「お客さんがいる時でも平気で怒るから困るって、何とかしてくれって言われたことあります……」
 お母さんは目を見開いた。

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