見出し画像

愛なんか、知らない。 第8章 旅立ちの家 ①春、旅立ちの家

 今って、何月だっけ。
 私は縁側に座って庭をぼんやり眺めていた。
 庭の木は青々と茂っていて、花壇では心が育てている野菜がすくすく育っている。頬をなでる風はやわらかだ。
 リビングの壁にかけてあるカレンダーを見たら、5月になっている。
 そっか。
 もう、1年半ぐらいになるんだ……。

「葵」
 背後から心が声をかける。
「迎えが来たから、行かなきゃ」
「そっか」
 心は箱を抱えている。その中にあるのは、きっと。
「ごめん、半分しかできなくて」
「ううん、僕も仕事で忙しくなっちゃったから。それで、これ、葵に預かっておいてもらいたいんだ。向こうに持って行っても、一人じゃ作業できないから。僕がここに帰って来た時に、また一緒に作りたい」
「……うん。分かった」

 箱を受け取る。この中に入っているのは、心が昔お母さんと住んでいたアパートのミニチュアだ。
 半分しかできなかったけど、二人で作りながら、いろんなことを話した。それも、今になっては遠い遠い昔のことのようで。
「今更だけど……僕はここから通ってもいいんだよ」
 心はさりげなさを装って言った。

 心は大学を卒業してから、はなまる亭の社員になった。店長さんに頼まれたからだ。
 ホントは、店長さんは娘さんに会社を継いでもらいたかったらしいけど、娘さんは普通の会社に就職して、「お弁当屋を継ぐつもりはない」ってキッパリと断ったみたい。
 はなまる亭は好評で、2年前に2軒目を隣の市に出店して、奥さんが店長になった。さらに千葉県のショッピングモールから出店のお誘いがあって、出したいけれども娘さんはあてにできない。ってことで、心に白羽の矢が立ったんだ。

 心は料理の腕をメキメキと上げて、バイトとパートをとりまとめるリーダー的な役割を任されるようになって、時給もかなりアップしていた。
 だから、心に新しい店を任せようって話になっても、不思議じゃない。
 ってか、店長さんが新しいお店に行って、心が今のお店の店長になればいいんじゃないかって思うんだけど。店長さん的には埼玉から毎日通うのは大変だし、かといって単身赴任をするのも嫌だから、心に任せようってのが本音みたい。
 まあ、心がやる気になってるからいいんだけど。

 卒業後、すぐに食品衛生責任者の資格を取って、心は新しいお店に何度も足を運んで、着々と準備を進めていた。
 でも、ここからお店までは片道2時間ぐらいかかるから、毎日のように終電で帰って来る生活はさすがにハードすぎて。2、3か月経った時、過労で倒れちゃったんだ。
 あの時は、私は生きた心地がしなかった。パニックになっちゃって、ずいぶん純子さんたちに心配をかけた。
 それで、心は店の近くにアパートを借りて住むことになった。
 今日は、その門出の日だ。
 門出の日。そう。心が新しい人生に向かって旅立つ日だ。

 私はゆっくりと首を振った。
「ううん、大丈夫。ここから通ってたから、疲れがたまって倒れちゃったんだし。心は店長なんだから、店のことを一番に考えたほうがいいと思うよ」
「店も大事だけど、葵も大事だし」

 心のその言葉に、ウソはないと思う。
 でも、既に部屋を借りちゃったんだ。今さら引き返せないよね。
「ありがとう。でも、心には自分のやりたいことを大事にしてほしいんだ。やりたいことをやっと見つけたって言ってたでしょ?」
 心は泣きそうな顔で唇を噛む。

「……毎週、帰って来るから」
「うん、ありがとう。でも、ムリしなくていいよ。開店直後でまだ大変なんでしょ? 人手も足りないから、心がやらなきゃいけないことが多いって言ってたじゃない」
「それはそうだけど」
「また心が倒れたりしたら、やだもん」

 外で、プップーと車のクラクションが鳴る。
「ホラ、待たせてるんでしょ」
「うん」
 心は最後に、仏壇に挨拶をした。そこに飾ってあった心のお母さんの遺影と位牌は、もうない。おばあちゃんとおじいちゃん、心がここからいなくなっても、ずっと見守ってあげてね。

 ワゴン車が家の前に止まっている。養護施設で一緒だった友達が車を借りて引っ越しを手伝ってくれたのだ。心は荷物が少ないから、ワゴン車で事足りた。
 心は車に乗る前に、振り返った。
「葵、つらくなったら、いつでも連絡してね」
「うん、ありがとう」
「僕」
 そこで心は言葉を詰まらせてうつむく。
「僕、葵に、会えてよかった」
 かすれた声だけど、しっかり私に届いた。
 あ。ダメだ。泣きそう。でも、泣いたら、心はきっと行けなくなる。泣いちゃダメ。泣いちゃダメだ。

「うん、私も、心に会えてよかった。うちに来てくれて、ホントにありがとう。心がいなかったら、私」
 ダメだ。それ以上、言葉にできない。
 心は顔を上げて、真っすぐに私を見た。
「葵は、ありのままの僕を受け入れてくれた。だから、僕はラクだったんだ、葵といると。息苦しくないって言うか、普通に呼吸できて。葵がいてくれたから、僕、大学も最後まで通えたし、自分がやりたいことも見つけられたんだ」
「そんな……それは、心が頑張ったからだよ」

「ミニチュア作りながら、葵と話しするの、すごく楽しかった。いろんな大切なことを思い出せたし」
「うん、うん」
「本当は、離れたくない、んだ」
 心の目に、みるみる涙がたまる。

 たまらず、心に抱きついた。きゃしゃな体。細い首、細い腕。忘れない。忘れないよ。このぬくもり、肌の感触、絶対に。
「これで最後じゃないんだし」
 そういう私の声は、すっかり涙声だ。泣いちゃダメ。そう思うのに、止められなくて。

 二人とも、しばらくお互いの肩に顔を埋めて泣いた。
 通りすがりのご近所さんが、「何事か」って感じでジロジロ見ていく。
「毎週、帰って来るから」
「うん」
「何かあったら電話してね。絶対だよ」
「うん、うん」
 再度クラクションに急かされた。
 ようやく体を離して、二人でちょっと照れ笑いして。涙を手で拭いながら、心は助手席に乗り込む。

「それじゃね」
「うん。元気でね」
「葵も」
 車がゆっくりと走り出すと、心は窓を開けて「葵~っ」と手を振る。私も手を振り返す。
「頑張れ、心!」
 ようやく言えた、その一言。
「ありがと~! 葵も頑張れ~!」
 心は身を乗り出しすぎて、運転手さんに引き戻されてる。
 やがて。
 車は見えなくなった。

 大丈夫、すぐに会えるんだし。隣の県だし。
 そう思っても、涙は止まらない。
 私はサンダルの音を空しく響かせながら、家に入った。

 ガランとして、誰もいない家。心と出会う前の家に戻ったってことだ。
 和室は、仏壇以外、何もない。元々、心は押し入れにほとんど荷物を入れてたからスッキリしてたけど。料理にハマってから、料理本がどんどん増えていって、部屋の隅にカラーボックスを置いていた。その上に、純子さんからもらったミニチュアハウスを置いてたんだ。
 そんな心の気配が、すっかり消えてしまった。まるで、最初から、そこには誰もいなかったかのように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?