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愛なんか、知らない。 第5章 再生の家 ①21歳、春。

 目の前に桜の花びらがハラハラと舞い落ちて来た。
 私は反射的に片手でつかむ。ゆっくりと握りこぶしを開くと、淡いピンクの花びらがひっそりと手のひらに乗っている。白い掌をほんのりと染めるように。
 見上げると、青空をバックに桜の木が枝を広げ、花があふれんばかりに咲いていた。池は花びらで桃色に染められている。

 こんな光景、本当なら感動して見とれて、ミニチュアで作れるかなあ、なんて思うのに。今の私には全然響かない。

「葵~、あっちで待ってるって」
 受付に聞きに行っていた心が戻って来た。私はコクンとうなずく。
 心は、出会ったころは金髪だったけど、今はすっかり黒髪になっている。黒髪に戻したって言うより、髪を染めるお金がもったいないってことみたい。ショートカットはそのままだ。

 池の周りの石畳を踏みしめながら、心の後に続く。石畳も花びらで点々と桃色に色づいている。
 庫裡くりの裏に出ると、心は「すみませ~ん」と引き戸を開けて、恐る恐る中をのぞく。
「ああ、後藤さんね、どうぞおあがりください」
 中から声が聞こえる。心に手招きされて、私も中をのぞいた。

 そこには柔らかい笑みをたたえた尼僧が立っていた。歳は50歳ぐらいかな。ほっそりとして、丸坊主の頭も違和感がない。
「こここんにちは」
 私はぺこりと頭を下げる。尼さんに会ったのは人生初だ……。
「こんにちは。どうぞ、おあがりください」
 勧められるまま、三和土たたきで靴を脱いで上がる。

「それにしても、理沙さんに娘さんだけじゃなく、息子さんもいたなんてねえ。理沙さん、家族の話はあんまりしてくれなかったから」
 私と心は顔を見合わす。
 えーと。これは、心を男の子って思ってるってことだよね?
「あ、あの」
 私が打ち消そうとすると、心は腕をつかんで黙って首を振った。そのまま話を進めてもいいってことみたい。

「こちらでお待ちください」
 畳の部屋に通され、私と心は座卓の前に並んで正座した。
 やがて、障子をすらりと開けてやや長身の尼さんが入って来た。60代か70代ぐらいかな? 目尻にしわが寄っている。

「こんにちは」
 二人で頭を下げると、「こんにちは。今日は遠いところをご苦労様です。私はここの住職の恵善と申します」と尼さんも丁寧に頭を下げてくれた。私と心は慌ててもう一度頭を下げる。

「そんなに硬くならなくていいですよ」
 恵善さんは私たちの前に座った。
「お二人は、今日はどこから? 東京からいらしたの?」
「いいいいえ、埼玉です」
「埼玉から? それは遠かったでしょう。ここは鎌倉駅からも遠いし、ちょっとした旅行のようなものでしょうねえ」
「え、ええ、は、はい」
 あー、緊張するとどもっちゃう。。。
 話をしていると、さっきの尼さんがお茶を運んできてくれた。

「こちらは善信。あなたのお母様の指導を担当していたんですよ」
「そ、そうなんですか」
「このおまんじゅう、近くの和菓子屋さんの、地元では評判のおまんじゅうなんですよ。どうぞ召し上がれ」
 善信さんが私と心の前にお茶とお饅頭を置いてくれた。
「あ、あり、ありがとうございます」
「遠慮なく召し上がってください。喉が渇いたでしょう?」
 私と心は、勧められるままお茶を一口、二口飲んだ。恵善さんも一緒にお茶をすする。善信さんはちょっと離れたところに座った。

「それで、理沙さんのことですが」
 恵善さんはゆっくりと湯呑を置く。
「は、はい」
「お電話でもお話ししたけど、確かに、理沙さんはここにいました。妙善という僧名でね。そうね、去年の春だったかしら。ここに来た時はボロボロでしたね。身も心もボロボロっていう感じで……まあ、ここに来る人は、そういう人が多いんですけれど。私が聞いたのは、仕事でクビになって家を飛び出して、関西に行ったという話でした」

「関西?」
「ええ、確か、学生時代のご友人が大阪に住んでいるってことで、頼ったって言っていましたね」
「そのご友人、男性だったようですよ」
 善信さんがちょっと声を潜める。
「あら、まあ、それは初耳。でも、そういうことは、あまりお子さんたちの前では……」
「あ、そうですね。失礼しました。聞き流してくださいね」

 いえ、聞き流せないですよ……たぶん、それ、元カレのことですよね?
「それで、そのご友人のところに住まわせてもらいながら仕事を探したんですけれど、どこの会社でも雇ってもらえなかったそうです。ちゃんとした会社だと、年齢ではねられてしまったって言っていましたね。それで、夜のお店で働くことにしたらしいんですけど」

「よ、夜のお店って」
「あ、ごめんなさい、そんなにいかがわしいお店ではなくて、お酒を出して酔っぱらいの話し相手になるだけで……。あの、ドレスのような服を着て、肌を露出させる女の子たち、いますでしょ? ああいうお店ではないって言ってました」
「スナックですね。スナックのママさんのサポートだって」

「ああ、そうそう、スナックでした。でも、妙善さん、お綺麗でしょう? だから、そこのママさんより人気が出てしまって、嫉妬されて嫌がらせをされたって言ってましたね」
「お客さんから、お店の外でも会わないかって、しょっちゅう誘われてたみたいですよ」
「善信さん、だから、あんまりそういう話はお子さんたちの前では」
「あ、失礼いたしました、つい」
 善信さん、絶対に噂好きだよね? お母さんからいろいろ聞き出してるよね? それに、話したくてたまらないってオーラが出てますですよ?

「そのお店に来てたお客さんで、『うちの会社で働かないか』って声をかけて来た男の方がいたそうなんです。その会社に行ってみたら、英語の教材を売る会社で、それならできるって思ったらよからぬ商売だったそうですね」
「えっ、よからぬって……?」
「つまりね、高額の教材を強引に売りつける、悪徳商法のことですよ」
「善信さん、言葉に気を付けましょうね」
 私は絶句してしまった。
 お母さんが悪徳商法をやってたってこと? あのお母さんが?? ウソでしょ???

「妙善さんは、それが悪い商売だなんて思っていなかったと話していました。でも、被害者が集団訴訟を起こしたそうなんですね。そうしたら、社長が姿を消しちゃって、これはマズい仕事だって気づいたって言ってましたね。それで逃げて来て、ここに辿り着いたようです」
「毎日、被害者からクレームが入るし、たまったもんじゃないって言ってましたねえ。住んでるアパートまで突き止められてドアに落書きされたとか」
 お母さん。どんだけ壮絶な人生送ってるの……。

「そ、その、それって、ホントにお母さん、知らなかったんですか?」
「本人はそう言ってましたよ。私たちはそれを信じるしかないんです」
「ここに来てから、最初は熱心に修行されてたんですよ。心を入れ替えるんだって言って。だけど、お寺のホームページをつくるべきだ、もっと宣伝するべきだって言うようになって」

「参拝客が増えたら、もっとお布施が集まるって力説されてましたねえ。でも、私たちはひっそりと今までやって来たもんですから、これからもそうするつもりだってお話ししたんですけれど、全然耳を貸さなくて」
「それで、お寺のPacebookを勝手に作って、アマチュアの尼さんですって写真付きで投稿しちゃって。そしたら、『美しすぎる尼さん』ってインターネットで話題になったらしくて。問い合わせの電話がたくさんかかって来るし、こういう行為は控えて欲しいってお説教をしても、全然耳を貸さないし。お寺に会いに来たファンと、よく一緒に写真を撮ってましたよ」

 善信さんは心なしか楽しそうに語っている。いつの間にか、恵善さんよりしゃべってるし。
「そうなんですか……」
 ううう。相変わらず、周りの迷惑を全然考えずに突っ走ってるんだなあ、お母さん。

「その写真を、訴えている人たちが見つけたらしくてねえ。問い合わせの電話がかかって来たんです。その時は『お答えできません』って言ったんですけど、それを妙善さんに伝えたら、顔色を変えて。翌日、突然姿を消してしまったんです。私たちには何も言わずに」
 恵善さんはため息をついた。

「相談してくれたら、私たちも何か方法を考えたのに。水臭いというか、何というか、残念です」
 って、なんかお母さん、かき乱すだけかき乱していなくなっちゃったって感じだけど。二人とも優しい人みたいだからお母さんを責めないけど、なんかなんか。
「ごご、ご迷惑をおかけして、すみません」
 私は深々と頭を下げた。

「いえいえ、妙善さんがここにいた間は、いろんな刺激的なことがあって、それはそれで楽しゅうございましたよ」
「料理や掃除をもっと効率的にやるべきじゃないかとか、俗世では相当、優秀な方だったんだろうって、みんなで感心してました」
 もしかして、それって呆れてたってことじゃ……?

「それにしても、妙善さんに娘さんがいるという話は聞いてたけど、中学生の息子さんまでいたなんて、知りませんでした。お二人は、今はどなたと暮らしているのですか?」
 私は心と顔を見合わせた。ショートカットでジーパン姿の心は男の子に見えるけど、中学生って……。

「えと、今は二人で暮らしてます」
 心がぼそっと答えた。
「えっ。子供二人で暮らしてるんですか?」
「えと、でも、知り合いのおばさんとおじさんが心配してくれて、よく家に泊まりに行ってるし、ご飯も食べさせてもらってるし」
「そうですか。面倒を見てくれる大人が近くにいるんですね。それならよかった」
 恵善さんはホッとした表情になった。

「妙善さんから、元夫は再婚したって聞いてますよ。お父さんは一緒に暮らしてないんですか?」
 善信さん、目が輝いてるよ。もうゴシップネタ大好きって感じだよね?
「あ、おと、お父さんは今の家庭を大切にしたいからって、うちには全然」
「えっ、そうなんですか? 血のつながった親子なのに」

「でも、生活費とかはくれるので、何とかなってるって言うか」
「お金だけくれればいいってものでもないでしょうに」
「まあ、それぞれの家庭の事情がありますからねえ。私たちが立ち入ることはできませんし」
「そうですけど」
「お二人とも、これも何かのご縁です。もし困ったことがあったら、いつでもここに相談しに来てくださいね。万が一の時は、お二人が暮らすぐらいの余裕はありますし。部屋は狭いけど」
 恵善さんは観音菩薩のような慈愛に満ちた表情になった。

「いいいえ、そんな」
「お二人とも、まだ大人の力が必要なんですから。いつでも頼ってきていいんですよ」
「あ、ありがとうございます」
 単なる社交辞令かもしれない。でも、初対面の私たちをこんなに心配してくれる人がいるなんて、嬉しい。
 私は「思いきって来てよかった!」と心の底から思った。

「何もお力になれなくてごめんなさいね」
 恵善さんと善信さんは門のところまで見送ってくれた。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「またいらしてくださいね」
「困ったことがあったら、本当にここに来ていいんですよ?」
「ハイ、ありがとうございます」

 私と心は何度も頭を下げて、門を出た。角を曲がったところで、私は「あ、せっかく来たから、桜の写真撮ってこうかな」と心に声をかけた。
「いいよ。庭に戻る?」
「うん」

 踵を返して門に向かうと、「あんな子供まで捨てて、かわいそうに」という恵善さんの声が聞こえて来た。
「ええ、本当に」
「まだまだ母親が必要な時期なのに。一度も連絡しないなんて、ずいぶん薄情なこと」
「そういう方でしたね。自分のことしか興味がないような」
「子供は親を選べないから、本当に気の毒だわね。あんなに奔放な母親だと、子供が不幸ね」

 私は固まってしまった。
 捨てられてかわいそう? 気の毒? 子供が不幸?
 そうか、私、お母さんに捨てられたのか。お母さんはお父さんの結婚に傷ついて、何もかもイヤになったんだとしか思わなかった。
 心は私の腕をそっとつかんだ。
「帰ろ?」
 私はうなずくので精いっぱいだった。

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