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愛なんか、知らない。 最終章⑭訣別の時

 その日は、老人ホームのワークショップの日だった。
 久しぶりだから、どうなることかと思ったけど、前教えた入居者さんから「あの時作ったお弁当、まだ飾ってあるの」と声かけてもらったり、「再開するって聞いて、真っ先に申し込んだ」と言ってもらえたり。
 こんなに歓迎してもらえるなんて、ありがたいの一言しかないよ。ううう。再開してよかった。

 心地よい疲労感に包まれて、家路に着いた。
 陽が落ちるのが早くなり、6時を過ぎると真っ暗だ。玄関の電気をつけて、「あれ、そういえば、外の電気もついてなかった」と気づく。お母さんは、いつも帰りが遅くなる時は、外の電気をつけていく。
「この家、留守だと思われたら、泥棒に入られるから」って理由で。電気をつけるのを忘れちゃったのかな。

 あれ。ジョギングシューズが出てる。珍しい。家に戻って来てから運動は全然してなかったのに。フィットネスクラブで働いてるから、体を動かそうって思ったのかな。
 私は何げなく、お母さんのジョギングシューズを下駄箱にしまおうと、扉を開けた。

「えっ」
 しばらく固まる。
 ない。お母さんの靴が、一足も。私の靴だけ並んでいる。
 突然家に帰って来てから、ここに4、5足は並んでいた。
 古いから捨てたとか? でも、全部まとめて捨てるなんてこと、ある?
 ざわっと鳥肌が立った。
 イヤな予感。イヤな予感。

 二階に駆けあがって、お母さんの部屋に入って電気をつける。
 布団はちゃんと畳んである。……ちゃんと? いつも乱れたままだった気がする。
 クローゼットを開けると、そこは空っぽだった。タンスの引き出しを開けても、からっぽだ。
 まさか、また? もしかして、また?
 机の上を見ても、何も置いてない。
 階段を駆け下りて、ダイニングテーブルの上を見ても、どこにも何もない。メモか何かが置いてあるんじゃないかって思ったけど。

 まさか、仕事に行くのに荷物をすべて持って行くなんてことはないよね。
 お母さんのスマホに電話をかける。
 だけど、何度かけても話し中で。もしかして、ちゃっきょされてるってこと?

「ええー、どうしよう……」
 私は力なくソファに座り込んだ。
 お母さん、また出て行っちゃったの? 何も言わずに。
 どうして? 仕事で何かあったのかな……でも、フィットネスクラブの仕事は順調そうだったけど。生活費ももらえるようになったし。

 ……あれ、出て行くほどのお金、お母さん、持ってるのかな。戻って来た時は、お金が底をついたって言ってたけど。
 その瞬間、ドクンと心臓がはねた。
 口座。銀行口座。お母さんに事務を任せてた時、お金の振り込みや引き出しを任せてた。
 私、銀行口座、変えてない。暗証番号を、お母さん、知ってる。

 まさか。まさか、そこまでするはずないよね?
 震える手で。
 スマホで銀行口座を確認する。
 まさか、そんな。私のお金を勝手に引き出すなんて、そんなこと、さすがにお母さんもするわけないよね?
 祈るような思いで口座を開くと。

 残高、58750円。
 ひゅっと口から息が漏れる。
 何度見ても、何度数えても。
 コツコツ貯めてたお金、100万円がなくなってる。
 仕事をしてない間も、貯金を少しずつ崩しながらやってきたんだ。その残りのお金が、ない。

 どうし。どうしよう。
 心に。心に相談する? でも、お店が忙しいのに迷惑かけちゃう。
 どうしよう。お父さんに言う? ううん、お父さんに言っても、何かしてくれるわけじゃないし。どうしよう。
 震えながら、私が電話をかけたのは。

「はい、塚田です」
 塚田さんの声を聞いた瞬間、涙がどっとあふれる。
「あの、わた、お、おか、お母さんがっ」
 塚田さんは、すぐに私の異変に気付いたみたい。
「どうしました? 何かありました?」
「お、お、おか」

 ダメだ、しゃべれない。嗚咽が止まらない。
 塚田さんは泣きじゃくる私をなだめながら、少しずつ、話を引き出した。
「分かりました。僕、これからそっちに行きます」
「え?」
「鈴を預けて、そっちに行きますから、待っててください」

 そんな、いいですよ。もう夜ですし。 
 そんな言葉が出ないうちに、電話は切れた。私は床に座り込んで、泣きじゃくった。
 なんで。なんで?
 純子さんが亡くなった時は、いろいろ助けてくれたじゃない? ミニチュアの仕事を再開した時、喜んでくれたじゃない? やっと、やっと親子に戻れた気がしてたのに。
 この間、塚田さんとのことを否定されて、反論したから?
 幸せそうな私を見て、気に入らなかったから?
 それとも、何かトラブルに巻き込まれたとか? それなら、お金が必要だって言ってくれればいいのに。

 なんで。
 なんで、何度も私を捨てるの? ひどい、ひどいよ。

 それから、どれだけ時間が経ったのか。
 家の前で車が止まる音がしたと思ったら、チャイムが鳴った。
 インターホンの画面には、塚田さんの姿。
 すっかり泣き疲れて魂が抜けた状態の私は、フラフラしながら、なんとか玄関のドアを開ける。
 塚田さんは、私の顔を見てホッとした表情になった。

「大丈夫ですか?」
 私は力なく首を振る。
「とりあえず、入りましょう」
 塚田さんは暖かいお茶を淹れてくれた。
 二口、三口飲んで、ほっと息をつく。体中に、暖かいお茶が染みわたっていく感じ。

「お母さんが、お金を、全部持ってっちゃった」
 ポツリと言うと、塚田さんは大きくうなずく。
「銀行口座の暗証番号、知ってたから。まさか、こんなこと」
 そこまで言うと、枯れ果てていたはずの涙がホロリとこぼれた。

「こんなことを言うのは、残酷かもしれないけど」
 塚田さんは冷静な声音で言う。
「警察に行ってもいいんじゃないかな」
「えっ」
 そこまで考えてなかった。
「だって、これは窃盗でしょ? いくら親だからって、全額持ってくなんて、ひどすぎるよ。警察に被害届を出してもいいと思う」
「で、でも、そこまで」
「そこまでしたほうがいいことじゃないかな。だって、何年もかけて葵さんが働いて貯めて来たお金でしょ? それは葵さんのものだよ。お母さんが盗んでいいものじゃない」

「盗んだのかどうかも……何かトラブルに巻き込まれたとか」
「そうだとしても、葵さんに相談してお金を貸してもらうっていうのなら、分かるよ。でも、荷物も全部ないんでしょ? それは逃げたんだよね、葵さんのお金を盗って。それに、電話も通じないなんて、悪質だと思う。どういう事情だとしても、お金を勝手に持って行っていい理由にはならないから」

 確かに、そうかもしれないけど……。
「警察に言うほどの、悪者じゃないと思う」
 私が声を振り絞ると、塚田さんは黙り込んだ。
 やがて、「もう、いいんじゃないかな」とポツリと言う。
 その言葉に、私は首をかしげる。

「もう、お母さんを実の親だって思わなくていいんじゃないかな。今までも、葵さんからお母さんの話を聞いてきたけど、まだ学生の娘を置いて急にいなくなっちゃうとか、それも音沙汰なしで何年も帰ってこないなんて、ひどすぎるよ。だって、高校の時も、強引に海外に行っちゃったんでしょ? 普通、高校生の娘を置いて行こうとする親なんていないよ。挙句に、娘のお金を盗んで逃げるなんて。もう、絶縁していいレベルだよ。実の親だからって、受け入れる必要はないよ」

「でも、私が、お母さんの言うことを聞かなかったから……塚田さんと付き合うのをやめなさいって言われても拒んだからかもしれないし」
「いや、それって、娘のお金を盗む理由にならないでしょ? むしろ、そんな理由で盗んだんなら、相当ヤバイ人間だし。葵さんの親を悪く言って申し訳ないけど、もう縁を切ったほうがいいよ、そういう人とは」
「でも……」

 私の目から大粒の涙がこぼれる。
 一人になっちゃう。また一人になっちゃう。
 何もしてくれなくても、家にいてくれるだけで、どこか安心してたんだ。一人ぼっちではなくなるから。

「ホントは、あんまり言いたくなかったんだけど」
 塚田さんはそこで言葉を切る。
「オレが鈴とここに来てて、トイレを借りた時に、『うちの娘は騙されやすいから、ちょろいでしょ』って言われたことがあって」
「えっ、そ、そんなことを?」
 知らなかった。
「そんな、言ってくれれば」
「いや、言えないでしょ、これは。ひどすぎて」
 確かに……。

「オレは、お母さんは葵さんに憎しみをぶつけてる気がするんだけど。何というか、自分の人生がうまくいってない苛立ちをぶつけてるって言うか」
 憎しみ。
 そっか。私、お母さんの望み通りの娘じゃなかったしな。ミニチュアはやめなかったし、留学も行かなかったし、お弁当を作ってくれたことないって、会社の人の前で暴露しちゃったし。

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