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同窓会

2019年6月に留学先の同窓会があった。同窓会といってもささやかなもので、私の学年が私を含めて5名、次の学年が4名参加しただけの内輪の会だ。MBAのコースで、留学当時は2年間のプログラムだった(現在は15ヶ月らしい)。1学年120名で、私の学年ではこのうち日本人が7名、次の学年は5名だった。たまたまこの2学年は年齢が近い連中が集まったので、修了後30年近く経つというのにいまだにこうして時々集まるのである。今回はその12名中9名が集まった。12月6日の「できることを」に書いた二首目の歌に登場するツルツルはこの同窓会の仲間でもある。

残り毛の扱いに出る人となり剃るか残すか美意識の業

と詠んだが、彼はアマゾンで買った6,000円のバリカンで一日置きに剃るのだそうだ。結構手間暇かけているわけで、剃る方が美意識が高いとも言える。

60歳前後ともなると、髪がなくなるどころか、亡くなってしまったのもいる。

同窓の語らいの場は亡き友がラストピースのジグソーパズル

亡き友のことを肴に酒を呑む三十年の時空の香

亡くなった奴とは仲が良かった。ただただ真面目な奴で、鬱病を患い、自殺と言えなくもない突然死だったそうだ。そんなこんなで同窓会での話題は、結局は思い出話になってしまう。たった9名で同世代といったところで、たまに集まって語る話題などあるわけもない。それでも、なんだか楽しいのである。同窓会というのはそういうものだと思う。尤も、一度出席して楽しくなかった同窓会には二度と関わらないのだが。

変わらずと思い込んでもいつまでも語れる話題あるわけもなし

同窓の人を見て識る世の流れ自分自身の定点観測

還暦は己を試す曲がり角その道程が行手を決める

齢を重ねて面白いと思うのは、あんなふうだったのがこんなになっちゃった、というドンデンを間近にたくさん見聞できることだろう。落語とか映画とか芝居とか、今より少し若い時分に熱心に聴いたり観たりできたものがつまらなくなってしまうのは、そんな作り物よりもはるかに面白い現実を体験してしまったから、というのもあるかもしれない。

でも、だからどう、というわけでもない。老人の扱いにまつわる民俗はいろいろあるが、そうした行事類のトリガーが60歳という年齢にあることが多い気がする。何より「還暦」と言う言葉が人生を60年と規定していて、そこから先は余りものという認識を示している。柳田国男『遠野物語・山の人生』(岩波文庫)に収載されている「遠野物語」にこのような記述がある。

昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追い遣るの習いありき。老人はいたずらに死んで了うこともならぬ故に、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝に野らに出づるをハカダチといい、夕方野らより帰ることをハカアガリというといえり。(70頁)

また、先日読んだ加藤九祚の『シベリアに憑かれた人々』(岩波新書)にはこんなことが書いてあった。

むかしスキタイ人は六十歳を人生の極限と考え、それ以後は余生として、元気なうちに同族によって羊肉と一緒に煮て食われることを光栄と考えていた。(98頁)

人に食われるより人を食うほうがいいように思うが、自らの意志で己の「究極」と考えるところにピリオドを打つということに憧憬の念を覚えないわけでもない。生まれることを選べないのだから死ぬことぐらいは選んだっていいじゃないか、と考えるか、そもそも生死は自分で選ぶことではない、と考えるか。正解は無いが、そこをどう考えて生きるかということは人の了見を形作る根本のような気もする。

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