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通信講座

いつかそれなりに歌とか俳句を詠むことができるようになったとして、歌仙を捌くことができるような友だちができたとして、愉快に歌仙を巻くことができるようになったとしても、おそらくかなり先の話だ。「歌仙おもしろそうだなぁ」と思うことは結構なことなのだが、思っているだけでは始まらない。まずはできることをしないといけない。

それで、教養講座風の万葉集講座とは別に、以前に少し触れた通信教育で短歌を学ぶことにした。「はじめての短歌」と、それに続いて「短歌入門コース」というものを受講した。

前に触れた

「じゃあまたね」いつものように響けども君の名のなき同窓名簿

は「はじめての短歌」3回目の課題として提出した2首のうちの1首だ。もう1首は

残り毛の扱いに出る人となり剃るか残すか美意識の業

である。私も相当薄いのだが、同年代の知人のなかには残さず剃ってしまう者もいる。私は自然に任せている。無くなってしまうものはどうしようもないと思うのである。どうしようもないことを取り繕うというのは、物事の表面に囚われているようで哀れだと思うのである。たまたまこの課題の少し前に同年齢の知人と飯田橋で一献傾ける機会があり、彼がツルツルにしていたのを見てそう思ったのである。彼は過去に2度鬱病を患った。2度とも切っ掛けは昇進だった。私も給与生活者だが、昇進というものとはついぞ縁がないので、理解できないのだが、何か妙な誤解をして妙な無理をするから心が悲鳴を上げるようなことになるのではないだろうか。

それで、この歌は以下のような添削を受けた。

<歌にしたいこと>が歌の形に整えられています。(中略)「美意識あらわ」と結びましょう。視点のはっきりした作品です。
<別案>残り毛の扱いにさえその人となりを感じる齢になりぬ
(佐藤孝子先生)

この回は齢を重ねてこそ詠むことのできる歌が2首揃った。意識したわけではないのに、自然に自分の現状が表出するのである。短歌の雑誌を読むと自分とか自分の身近な人の死とか介護の歌がたいへん多くて、読んでいて気が滅入るのだが、自分が詠んでもこのザマだ。

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