折口信夫 『日本藝能史六講』 講談社学術文庫
若い頃から民俗とか習俗というものに興味があって、学生時代は経済史のゼミに籍を置いていたりもしたのだが、そういう方面の本を読んだり話を聴いたりするようになったのは50歳を過ぎたあたりからだ。東京で暮らしているのに大阪の国立民族学博物館の友の会に入ってみたり、柳田國男や宮本常一の著作を読んだりするのもそういう流れの所為である。柳田は文庫になっているものは一通り読んで、遠野にも出かけてみたりもしたのだが、その流れにある折口信夫の著作は手にしたことがなかった。何か思うところがあってそうなったのではなく、気が付いたら読んでいなかったというだけのことだ。本書は私が初めて読了した折口の本だ。
折口は民俗学者、国文学者、国語学者であるが、釈迢空と号する歌人でもある。この釈迢空というのは折口が歌を詠むときの号だが、折口の戒名でもある。生前に戒名を考え、その名前で歌を詠んでいた。このことは別の機会に改めて触れる、かもしれない。それはさておき、折口の時代は知識層の人々が歌を詠むのは当たり前だった。
軍人が決戦に臨んで命令文や報告文に歌や歌に類するものを添えるのも当然だった。日露戦争の日本海海戦ではバルチック艦隊を前にして連合艦隊参謀の秋山真之が起案した命令文「アテヨイカヌ ミユトノケイホウニセッシ ノレツヲハイ ハタダチニ ヨシス コレヲ ワケフウメル セントス ホンジツテンキセイロウナレドモナミタカシ」の最後の部分の平文「本日天気晴朗なれども波高し」の部分はあまりに有名で、現在でも様々に引用されている。その前段は暗号文だが、全文を読み下すと「敵艦隊 見ゆとの警報に接し 連合艦隊 は直ちに 出動 之を 撃滅 せんとす 本日天気晴朗なれども波高し」となるらしい。実際の現場では旗艦「三笠」の通信室からモールス信号でツートンツートンと打電されたのだが、大海戦を目前にしている割には悠長な印象を受ける。しかし、「本日天気晴朗なれど…」に命令上の意味があったのかなかったのか知らないが、この一文があるとないとで、それを受け取った側の士気はだいぶ違ったのかもしれない。明治の日本はそういうものだったのではないか。
太平洋戦争の硫黄島での戦いで、玉砕に臨んで指揮官の栗林忠道陸軍少将(玉砕後、中将)が東京の大本営へ打電した訣別電報には三首の歌が添えられていた。その一つ「国の為重き務を果し得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」は「散るぞ悲しき」の部分が本のタイトルに使われて有名になった。ちなみに、折口の養子であった春洋(藤井春洋)は硫黄島で戦死した。
その歌や句を詠むという「当たり前」に少しばかりのめり込んだ人が歌人や俳人となったのだろう、と単細胞的な想像をしている。折口の場合は「少しばかり」どころではなく、歌を詠むことの意味を問うことは人間の存在そのものを問うことでもあったようだ。ただ、歌人としては短歌界の中で異端のような位置にあったらしいが、晩年には宮中御歌会の選者を勤めている。また、書生として折口晩年の身の回りの世話をしたのが岡野弘彦で、岡野は後に宮内庁御用掛(1983~2007)、昭和天皇の作歌指南役、今上天皇皇后が皇太子皇太子妃の頃に和歌の進講をしており、歌会始選者も務めている。どのような姿勢で歌に臨もうと、力のある歌人であることは誰もが認めざるを得ないということだったのだろう。
「ほぼ日の学校」の万葉集講座で岡野の講義を聴いたことは、以前に書いた。その時から折口の書いたものを読まないといけないと思っていたのだが、3年間思い続けてようやく折口晩年の講義録のようなものを手にした。「日本藝能史六講」は昭和16年7月に藝能学会の前身の会が主催した公開講座の講義録をまとめたものだそうだ。このほか本書には「三味線唄の発想を辿る」と「翁の発生」が収載されている。
その万葉集講座では歌を詠み合うことは、単なる意思疎通というようなものではなく、言葉を発することで対象に対して霊的な働きかけがなされると当時の人々は信じていたのではないか、という話があった。言葉自体に何がしかの力があり、言葉を発声する、歌を詠む、そういった行為によって人と人との関係も、集団と集団との関係も、社会の中の秩序も、形成されたのではないかというのである。だから、歌は発声されるものである。読むのではなく、聴くものなのである。下の七七はリフレインされていたのではないかという先生もおられた。
そうなると、歌は現在のような趣味的なものではなく、呪術にも似た祭祀のようなことの一部を成していたはず、ということにもなる。つまり、現在は文学という括りで語られることも、源流を辿れば祭祀、祝祭、祭り=まつりごと=政=政治にも通じることであった、ということだろう。その残影が国の大事において歌が詠まれた、ということに通じるわけだ。例えば、
という歌は国家存亡をかけた戦いに負けることの心情を詠んだのではなく、ここで自分達は斃れるが、自分達が属する国(いわゆる国家ではなく「自分」の拠って立つ土台のような存在としてのクニ、自己と不可分な存在根拠のようなもの)は普遍的に存在するのだということを訴えている、と捉えることができるのではないだろうか。
歌を詠むというのは、自己を確認する作業なのではないか。だから、歌を詠むのに必要な言葉を識るには、その源流を辿ることと必然的に結びつく。折口が歌人であり、文学者であり、民俗学者でもあるのは、そういうことなのではないか。そして、歌は舞や踊りとも結びついている。芸能もまた祭=政と関連するということになる。
本書の記述について触れながら、もっとまとまりのあることを書きたかったのだが、とりあえず備忘録として抜き書きを並べておくことにする。後で改めてまとめ直さないといけない。
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