見出し画像

原爆曇天

原爆忌無理して落とす雲の間に
(げんばくき むりしておとす くものまに)

季語は原爆忌、夏。毎日暑い。立秋は過ぎたが暑い。台風10号がかすめて行っても暑い。台風9号はまだ東京からは遠いが暑い。曇っていても暑い。

たぶん1945年の8月も暑かった。特に8月6日と9日は局地的に多くの人が蒸発し、蒸発しなかった人も黒焦げになり、そうでなかった人も全身に大火傷を負うくらい暑かった、いや、熱かった。あの日、長崎は曇りだった、らしい。だから地上からは雲の上を行くB29の姿は見えない。B29の方からも長崎の街は目視できない。原爆投下の命令書には目視爆撃、それが無理なら海洋投棄とされていた。

この日の第一目標は小倉陸軍造兵廠。広島に原爆を投下したEnola Gayは気象観測機として一足早く小倉上空に飛来し、朝靄がかかっているがすぐに快晴に変わるだろうとの観測報告を送信。第二目標の長崎上空にはLaggin Dragonが観測機として飛来し、曇っているが雲量10分の2との報告を送信。9:40、原爆を搭載したBocks Carは大分県姫島方面から小倉へ爆撃航程を開始、9:44、投下目標上空に到達。靄は晴れておらず目標の目視ができない。何度か爆撃航程を繰り返したが結局目視ができなかった。この間に45分経過、Bocks Carは燃料系統に異常を生じ予備系統へ切り替える。45分も同じ地域の上空をウロウロしていれば、いくら実質的に継戦能力を喪失していたとはいえ、日本軍の高射砲も火を吹き、迎撃戦闘機もやって来る。Bocks Carは爆撃目標を長崎に変更、10:30、小倉上空を離脱。第一目標への爆撃失敗でクルーの間に動揺が起こったのか、長崎へ向かう途中、Bocks Carと、この日も科学観測機として同行しているGreat Artistがニアミスを起こす。

10:50、Bocks Carは長崎上空に接近。高度2,000mあたりに積雲が広がっている。目標を視認できず。しかし、投下予定地点より北寄りではあったが、雲の切れ目から長崎市街が見えた。10:58、高度9,000mからファットマンを手動で投下。11:02、市街中心から北へ約3kmほどの地点で炸裂。この4分の間にGreat Artistが原爆の影響を観測するためのラジオゾンデを吊るした落下傘三つを投下。投下後、Bocks CarとGreat Artistは急転回、急降下して原爆からの避難を図った後、しばらく長崎市上空を旋回し被害状況を確認。テニアン基地に爆撃報告を送信。

命令指示書を厳密に守れば、長崎には原爆は投下されていなかった。無理な投下と長崎の起伏に富んだ地形のおかげで、広島に投下されたリトルボーイの1.5倍の威力を持つファットマンが使用されたにも関わらず、被害は広島ほどではなかったとの評もある。しかし、事は被害の大小の話ではあるまい。

長崎を初めて訪れたのは2012年9月下旬。広島を訪れたのと同じ年だが、この時には既に就職しており、休暇を取っての旅行だった。広島から戻った後、ぼちぼちと就職活動や日雇いのバイトなどをするが、たまたま2社から採用の話があり、同時進行で両方から同時期に内定をいただいた。過去解雇に遭ったのはいずれも外資系だったので、50歳になることだし少し落ち着こうと、外資系を辞退して給料の安い日系企業に就職することにした。入社日は4月1日と決まり、書類上は前職との間に失業期間を生ずることなく(失業保険を受給することなく)就職することになった。一度離婚を経験しているのだが、就活ができるなら婚活もできるだろうと結婚相談所に登録したら、流れというものがあるらしく、登録して二ヶ月ほどで再婚も決まった。それが今の妻だ。そんなことはともかくとして、金融機関では諸々の事情で年に最低一回は1週間程度のまとまった休暇を取ることが義務付けられている。それで、9月下旬に休暇をとって一人で旅行をすることにした。東京から大阪へ行き、そこから長崎、五島と巡り、五島から長崎経由で東京へ戻った。

広島というと原爆のイメージだが、長崎というと必ずしもそうではない。鎖国をしていた江戸時代に外国との窓口になっていたほぼ唯一の土地としての特異な歴史がある所為だろう。五島は遣唐使の寄港地として長崎以上に古い歴史があるが、遣唐使関連よりもキリシタン関連の名所旧跡の方が目立つ気がする。おそらく現代の日本人の歴史観を形作るものとして、江戸時代というものが大きなウエイトを占めている。実際に安定していたのかどうかはともかくとして、17世紀初頭から19世紀中盤に至る約250年の太平の世というのは、さまざまなイメージを形成するのに十分な期間であったということだろう。

長崎の街を歩いて目につくのは角煮まんじゅうだ。コンビニ、スーパーの店頭、ちょっとした商店街には必ず大きなセイロやガラスの蒸し器に並んだ角煮まんじゅうがある。結局、眺めて通り過ぎただけで、長崎では角煮まんじゅうは食べなかった。

忘れてはいけないカステラ。『小三治』という映画がある。人間国宝になっている落語家、柳家小三治が67歳の時に撮影されたドキュメンタリーだ。その中で、長崎のカステラが登場する。落語会で長崎に出かけた時に、日頃お世話になっている人々に土産として贈るらしい。カステラ屋でかなりの数の宅配便の荷札を手帳を見ながら記入するシーンがある。そのカステラ屋が岩永梅寿軒だ。店舗を構えているが、商品は原則として受注販売。『小三治』を観て以来、ここのカステラが気になって気になって、長崎から東京へ戻る飛行機の予約と同時にカステラの予約も済ませた。

古い町には土地の自慢の食べ物があるものだが、菓子が多い気がする。主食以外にも人々が愛好する食べ物があるということが土地の豊かさの証左でもあり、それがそこの人々の誇りにもなっているのだろう。長崎の場合、観光の動線と関係があるのかもしれないが、大浦天主堂・グラバー園に至る坂道に全国区の文明堂をはじめたくさんのカステラ店が軒を連ねている。梅寿軒のある商店街にも集積している。ただ、予約をしないと買えないというのは、話の種としては面白いかもしれないが、無闇にありがたがるのもどうかと思う。結局、梅寿軒のカステラを食べたのは、今のところはこれが最初で最後だ。

「チャンポン」とか「皿うどん」というものもある。この時の宿が中華街の近くだったので、長崎滞在中は毎晩、中華街でどちらかを食べた。どの店のものもそれぞれに美味しい。

お好み焼きの起源は諸説あるが、鉄板で簡単に調理できることから、関東大震災、戦災といった大災害後の簡易食として普及が加速したという説がある。そういう点で、広島をはじめとして都市部でお好み焼き、もんじゃ焼きが広まるのは合理的であるように思われる。

それに対し、長崎は原爆にまつわる食や遺構が少ない印象を受けた。食は、角煮まんじゅうもちゃんぽん・皿うどんも中華由来であり、カステラは西洋由来だ。また、地形的に平地が少なく稲作に不適という事情もあるだろう。江戸期の鎖国期間中には対外交易の実質的に唯一の窓口として日本国内からの輸出品と海外からの輸入品が集中し、その取引による収益があることも、稲作を基本とする国内一般の経済構造とは性質を異にする特異な状況が定着した要因だろう。

ところで、8月9日はソ連が前日の対日宣戦布告に続いて満州へ侵攻を開始した日でもある。1945年2月のヤルタ会談で、連合国の間ではドイツ降伏後三ヶ月でソ連が対日戦に参戦することが取り決められていた。ドイツの降伏による停戦発効時間は中央ヨーロッパ時間で5月8日23時01分なので、予定通りの参戦だ。原爆に関しては、その後の核兵器の進展過程を見れば、広島に投下されたウラン型ではなく、長崎に投下されたプルトニュウム型をベースにしていることから、米国としては原爆投下を広島だけで終了させたくはなかったのだろう。手持ちの試作を一通り試す機会を欲していたはずだ。

終戦を目前に控えて、連合国側は終戦後を見据えた施策を打ち始めている。米国の原爆使用然り、ソ連がヤルタ会談で取り決められた欧州戦後構想に反してルーマニアやポーランドで共産主義政権を樹立させたことも然り。英国は連合国側でありながらも実態としては経済が破綻しており、米ソからの援助を必要としていた。つまり、連合国側も各国が自国の権益確保に動き、早くもヤルタ協定は形骸化の兆しを見せていた。それに危機感を覚えたチャーチルが音頭を取って7月下旬にドイツのポツダムで米英ソの首脳会談が開かれることになった。

1989年夏に観光でSCHLOSS CECILIENHOFを訪れた。当時、ドイツは東西に分かれており、ポツダムは東側の都市だった。西ベルリンに宿を取って1週間ほど滞在し、その間に日帰りツアーに参加して東ベルリンとポツダムを訪れたのである。日本はポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦が終わった、と言われているので、私はその時までポツダム会議というのは対日戦について話し合うためのものだとばかり思っていた。チェチェリエンホフ宮殿は当時は記念館のような施設になっていて内部はポツダム会議に関する資料などが展示されていた。どの資料もドイツの戦後統治についてとか、欧州全体の戦後体制についてのものだった。対日戦のことはうっかりすると見逃してしまうほど些少なものしかなかった。「え、これだけ?」と思い衝撃を受けた。しかし、1945年7月17日から8月2日という会議の期間から考えれば、もはや日本相手の戦争は「戦争」の体を成していなかったということだろう。つまり、もはやそのことで話し合うことなど無かったのである。そういう状況で原爆が投下されたというのは、形の上では戦争行為だが、実態としては新兵器実験のうちとも言える。

画像1

現在、世界には約13,400発の核兵器がある。ピークの7万発からは減少が続いているとはいいながら、大変な数であることには違いない。使わないものを生産するはずはない。しかも、プルトニュウムの濃縮には巨大な施設が必要なのである。そうした施設を維持するには稼働させないわけにはいかない。日本の使用済み核燃料再処理施設もそうした世界的な核サイクルの中にある。被爆国であることは核兵器の製造や使用に加担しないことを意味するものではない。

感染症にまつわる政府や国民の対応は非常時における人の行動に関する一般的原理を示唆するものだ。無事にオリンピックを開催できたことは喜ばしいことではあるが、夏の行楽シーズンに人流を十分に抑制できず、かつてない規模の感染拡大となっていることも事実だ。原爆・戦争、感染症拡大、天変地異、常にどこかで何かが起こっていて、人の社会には平穏な時間の方が短い気がする。その短い平穏な時にエラそうなことを宣う人はたくさんいる。だが、非常事態に対する人の動きには人というものの本性が滲み出ている。


長崎原爆資料館に展示されている原爆 'Fat Man'の実物大模型

読んでいただくことが何よりのサポートです。よろしくお願いいたします。