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十年経過

原発の事故の復興終わらずに五輪迎えてコロナで隠す
(げんぱつの じこのふっこう おわらずに ごりんむかえて ころなでかくす)

復興を誇示するはずの五輪祭コロナで流れ誰かが安堵
(ふっこうを こじするはずの ごりんさい ころなでながれ だれかがあんど)

CO2削減目指し原発が垂れ流すのは「安全」神話
(しいおうつう さくげんめざし げんぱつが たれながすのは あんぜんしんわ)

「再処理」の中味は単に「埋めるだけ」三百年でなんとかなるさ
(さいしょりの なかみはたんに うめるだけ さんびゃくねんで なんとかなるさ)

「最終」をそっと読み換え「中間」に「処分」の意味は「埋めるだけ」
(さいしゅうを そっとよみかえ ちゅうかんに しょぶんのいみは うめるだけ)

3月11日に投稿しようと思ったのだが、その日は別のものを投稿することにしたので1か月早く上げることにする。

オリンピックのほうはいろいろあるようだが、今年の開催は依然流動的な状況だろう。震災原発事故からの復興の象徴という側面もあるようで、オリンピック開催に合わせて、廃炉処理の前線基地のようになっていたJヴィレッジを本来のサッカー施設に戻し、聖火もここからスタートするはずだった。Jヴィレッジの除染作業の初日に、Jヴィレッジを訪れた。そのときのことは別のブログに書いた。あれから5年近くになるが、原発のほうは片付いた、とは言える状況にはない。その周辺で暮らしていた人たちにとっては、希望を抱くことのできるような状況になるのがいつのことになるのか見当もつかない、というのが現実だろう。

もっと時間を遡ると、2001年9月に六ケ所村の再処理施設の見学をした。「再処理」というのはもっと科学的にどうこうするものだと思っていたし、また、そういう語感の言葉だと思う。しかし、よくよく話を聞いてみると、早い話が埋めるだけなのだ。確かに、使用済み核燃料から使用可能なものを取り出す施設ではある。しかし、それは投入される使用済み核燃料の5%程度でしかなく、残りは結局のところ埋めるだけなのだそうだ。話を聞いたのは20年前のことで、そこから多少の進歩はあるだろう。当時建設中だった施設は竣工して稼働を始めたが、聞こえてくるのはトラブルの話ばかりで「再処理」の成果のほうは、国内の原発の殆どが休止状態にある所為もあり、全くと言ってよいほどに聞かない。もちろん、埋めると言っても、ガラスで固めて「キャニスター」と呼ばれる厚さ5mmのステンレス鋼製容器に入れ、深さ300mの貯蔵施設に保管するわけだが、こういうのは「埋める」と呼んで差し支えないだろう。

そんなものを何故、抱え込むことになったのか。ちょっと考えればわかることなので、ここで語るまでもない。

注:見出し画像の写真は天神岬公園(福島県双葉郡楢葉町北田天神原)から前原地区を望む風景。撮影日は2016年6月26日。

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