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内田百閒 『第三阿房列車』 新潮文庫

本でも映画でも続き物というのは難しいと思う。受け手の側はどうしても既読・既視聴の印象の残影があるので、先走った期待感のようなものを抱いてしまう。送り手の側はそれまでの延長線上で創作行為を行なっているので、そう簡単に大きな転換ができるものではない。結果として、期待値と実績値との間に不幸な乖離が生じてしまう。『阿房列車』は『第二』くらいで止めておいてちょうどいい塩梅のような気がする。『第三』は各篇とも『第一』『第二』に比べてやや冗長な印象がある。百閒先生もそれは感じたらしく、『第一』と『第二』は「小説新潮」の連載のまとめだが、『第三』には書き下ろしを一篇入れてある。また、最終篇「列車寝台の猿 不知火阿房列車」にはちょっと小説っぽいテイストが入っている。それにしても、5年にも亘って書き続けるというのは、やはり並ではない。『阿房列車』としてはこれら第一から第三までの三巻だが、内田は連載企画のために列車の旅をしていたわけではなく、列車に乗りたいから乗っているだけのようなので、『第三』の後も列車の旅は続く。そしてそれらの中にはその後の作品になるものもあった。

『阿房列車』の連載は時系列に従って書かれているが、書き下ろしだけは旅の後半、体調を崩したところから始まる。「隧道の白百合 四国阿房列車」だ。四国から大阪に向かう船の中で発熱し倦怠感もあって妙な具合だったので同行の平山氏がテキパキと動いて大阪上陸後直ちに病院へ行く。ところがその頃には平熱に下がり特段これといった異常は認められなかったという。しかし、具合はよろしくない。大阪から乗車予定の特急「つばめ」の発車時間までは間がある。大阪駅の助役室の長椅子で発車時刻まで休む。東京に帰ってすぐ、かかりつけの医師の診断を受けた。病気の詳しいことは書かれてないが「風がこじれて疲労と縺れ合い、そうなっている上になお無理が加わった」ということのようだが、それから熱が上がった。

その後、熱はまだ二三日続き、熱が取れてからも全身の倦怠感の為に起きられなかった。結局帰って来てから九日間寝て、十日目に床上げをした。目がもとの通りに見え出すには、一ヶ月近く掛かった。(84頁)

かなり重症だ。この時、内田は65歳前後で、この後81歳まで生きるのだが、他人事とは思えない。やはり人間は還暦を過ぎると生命活動はそれなりの状態になるということだろう。それを思うと平均寿命が何年であろうと、自分としては明日をも知れぬ命との自覚の下で生活をしないといけない。と、思っていても行動がどうしても伴わない。困ったものだ、と愚鈍なる読者は己のことを心配する。内田としてはどのような意図があってこの話を書き下ろしたのだろうか。

ところで、『第一』のカバーの写真は1952年10月14日の鉄道八十周年記念行事で内田が東京駅の一日名誉駅長を務めた時のものだ。『第三』に収載されている「房総鼻眼鏡 房総阿房列車」にはその時のことが登場する。ニュース番組のインタビューを受けたというのである。その時のことが引用されている。

「よく云われる事ですが、東海道線や山陽線の様な幹線の列車は、設備もよくサアヴィスも行き届いている。然るに一たび田舎の岐線などとなると、それは丸でひどいものです。同じ国鉄でありながら、こんな不公平な事ってないでしょう。そう云うのが一般の輿論です。これに就いて駅長さんはどう思いますか」
「表通が立派で、裏通はそうはいかない。当たり前のことでしょう」
「それでは駅長さんは、今の儘でいいと云われるのですか」
「いいにも、悪いにも、そんな事を論じたって仕様がない。都会の家は立派で、田舎の百姓家はひなびている。銀座の道は晩になっても明るいが、田舎の道は暗い。普通の話であって、表筋を走る汽車が立派であり、田舎へ行くとむさくるしかったり、ひなびたり、いいも悪いもないじゃありませんか」(42頁)

私は内田の方が正論だと思う。世論というものはいつの時代も馬鹿馬鹿しいものだ。しかし、内田はこれに続けて次のように書いている。

その時のはずみで、そうは云った様なものの、余りにむさくるしい三等車は恐縮する。(43頁)

この時利用した房総半島の鉄道にはいわゆる幹線がなかった。今は「わかしお」「さざなみ」「しおさい」という特急列車がある。あと、「成田エクスプレス」というものもある。ついでに京成が「スカイライナー」という優等列車を運行している。とはいえ、それらが走るからといって総武本線だの成田線だのをやはり幹線とは呼ばない。『阿房』当時、その房総半島を走る列車は少し酷い状況だったのだろう。ちなみに、鉄道八十周年記念行事のことが当時の新聞に掲載されている。内田名誉駅長の訓示に私は賛成だ。

「サービスなど以ての外」内田”阿房駅長”東京駅員に訓示
国鉄八十周年の記念行事の一こまに著名人を「一日駅長」や特急「はと」の「一日機関士、運転士」に仕立てて素人に鉄道の仕事を理解して頂こうという寸法で、国鉄では「もしも私が駅長、機関士、車掌だったら」の夢を実現、東鉄管内各駅ににわか仕立ての駅長や機関士、車掌さんが現われ各所に珍風景をくりひろげた
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名誉東京駅長におされた”阿房列車”の作者内田百閒氏は約束の時間午前十時半きっかりに出勤、まず時間を守る駅長として及第 ”阿房駅長”は早速、駅員を駅長室に集めて訓示
命により本職本日着任す、規律のためには千トンの貨物を雨ざらしにし百人の旅客を礫殺するも差つかえない、貨物とは厄介荷物の集積であり、旅客は一所に落着いていられないバカの群衆である、職員がこのことを忘れ枝葉末節なサービスに走りこれを勤めて足れりとすれば鉄道八十年の歴史はたちまち鉄路の露と消え去るであろう、ぐずぐず申すヤカラは汽車に乗せてやらなくてもよろしい、諸子は駅長の意図に従い、いやしくも規律にもとる如き事があってはならない、駅長の指示に背く者は八十年の功績ありとも明日カク首する、東京駅名誉駅長従五位 内田栄造
東京駅では内田百閒名誉駅長のもと名誉車掌に松井翠声氏、名誉機関士に舞踊家の西崎緑さんが午後零時半発大阪行特急”はと”に乗りこんだ
真新しい紺の制服ハサミを持った翠声氏が『毎度御乗車有難う…』と改札にハリきれば、作業服の西崎機関士、スパナを片手に車輪の点検までやって大はりきり、赤線金スジ入りの駅長は発車真際になったら俄かに駅長を辞任”熱海まで行くよ”と、翠声車掌と一緒に展望車に乗りこんで行った
(読売新聞 夕刊 1952(昭和27)年10月15日付)

見出写真は2009年6月22日撮影。撮影場所は不明。札幌から函館の間のどこかの駅だろう。この時はふと思い立って夏至に夏至らしい場所へ出かけることにした。尤も出かける直前に思い立ったのではない。夏至の一月ほど前、JRの座席指定券発売の頃だ。そうでないと「北斗星」には乗れない。夏至に日本で最も日照時間が長いのは最北端にある稚内のはずだ、と思った。それで飛行機で羽田から稚内へ行った。稚内からは鉄道を乗り継いで東京へ戻り、その足で勤め先に出社した。せっかく長い日照時間を享受しようと稚内まで出かけたのに、雨だった。


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