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いよいよ「はじめての短歌」第5回最終回の課題は自由詠3首

百日紅盛夏の記憶生々し梅雨空仰ぎどうかこのまま

念力で浮いた岩ある山寺の庭の紫陽花じっとしており

空と海青き空間引き裂いて津波の跡の護岸の白さ

一首目は身近な風景を詠んだ。自宅の近くから最寄駅までの街路樹が百日紅だ。5月下旬から11月上旬まで花をつけている。花の盛りは暑さの盛りでもあり、百日紅は暑さの記憶そのものでもある。梅雨のまだ凌ぎやすい時期には、このくらいで勘弁して欲しいと切に願うのである。

二首目は旅先の風景。鰍沢は山梨県富士川町にある。鰍沢は落語「鰍沢」の舞台だ。その富士川町が町おこし事業として「鰍沢」の舞台を尋ねる落語会を数年にわたり年一回企画した。それに毎回参加した。「鰍沢」の主人公は小室山で毒消しの護符を受け、その護符で命拾いをするのだが、小室山の近くにある懸腰寺という無住の寺に法論石という大きな岩がある。その昔、日蓮が念力で浮かせたという岩だ。いつの季節の話なのか知らないが、境内の隅に紫陽花がたくさん咲いていた。岩が浮遊していたときに、紫陽花が咲いていたら、面白い景色になるなと思っただけだ。

三首目も旅先の風景。東日本大震災から8年が過ぎた気仙沼を訪れた。8年経っても津波の被害を受けた地域の殆どが未だに更地のままになっていることに衝撃を受けた。空も海も青かったが、その空と海の境に真新しい護岸の白いコンクリートが何事かを引き裂くかのような鋭さで風景を断絶させていた。気仙沼に限らず、今回の津波に被災したところにはどこも巨大な防潮堤が築かれたようだ。津波や大波から海辺の地域を守るには巨大な壁を作ればよい、というのはその通りかもしれないが、なぜか素直に了解できないのである。自然に形式的に対抗して作った空間で、果たして気持ちよく暮らすことができるものなのだろうか。天然の恵みも災いも全部引き受けてこその暮らしの営みではないのか。防災や減災は生活を守る上で重要なことだ。しかし、だからといって壁を作ってみたり、大地を底上げしてみたり、というのが本当に生活を守ることになるのか。津波から8年過ぎて更地のまんまという現実が語ることは何なのか。しばし立ちすくんでしまった。

それで添削だが、直されて素直に納得できない。一首目は全取っ替え。代案として示されたのがこの歌。

百日紅咲きはじめたり昨年のような猛暑になりませんように

二首目は以下のように添削された。

日蓮の念力で浮いた岩のある山寺の庭に紫陽花の咲く

三首目は以下の様に添削された。

空と海青くひろがり津波後に修復された護岸の白さ

敢えて先生の名前は出さないが、こういうのも短歌なのだろうか。

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