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就職総括

間近には鬼神大波身がすくみ遠目にはただ静かな水面
(まぢかには きしんおおなみ みがすくみ とおめにはただ しずかなみなも)

ぼちぼち定年なので、野暮を承知で就職を振り返っておくことにした。新卒時の就職に関しては、1985年4月入社の新卒採用は表向きは1984年10月1日解禁とされていたが、実質的には夏休み中にほぼ決着していた。10月1日は入社意志を形式的に確認すべく宴会のようなものを催したところも少なくなかった。

私は50社会社訪問をして1社も引っかかることなく10月1日の寒空を迎えた。1984年の夏はロサンゼルスオリンピックが開催されていた。毎日のように炎天下を、あっちの会社、こっちの会社と回って、夜はテレビでオリンピックをぼんやり眺めるという毎日だった。当時、10月になって採用を続けていたのは、証券会社と総合電機くらいだった。マスコミは逆にこの頃から採用活動が本格化していたと思う。なんだか自分が働くということのイメージが全く掴めず、どの会社を訪問しても、話す相手はバカっぽくて、なんだかなぁ、と思っているうちに面談が終わってしまうので、採用されないのは当然だった。

そうこうしているうちに10月になってしまったので、10月1日に51社目になる会社の人事部を訪ねた。
「ずいぶんのんびりしちゃったねぇ」
なんて言われながら雑談をして、
「じゃ、役員に会う?」と
尋ねられたので
「はい」
と答えたら、10月3日に内定が出た。この会社とそれまでの50社との最大の違いは、この会社での面談では志望動機を一切尋ねられなかったことだ。翌年4月1日に入社した同期は大卒総合職だけで350名。なるほど、子供の妄想でしかない志望動機などどうでもよいわけだ。

それでも、入社後はフツーに働いたつもりだ。バブルの頃に、人事の留学制度が拡充され、それまで年一人か二人だったのが五人か六人になった。こういうものは勢いに乗らないといけないと思って応募したら、留学候補になった。留学するには、学校に入学を志願して入学許可をもらわないといけない。そんな当たり前のことも知らないで手を挙げたので、えらいことになった。それでも世間にはいろいろな学校があるもので、イギリスのマンチェスター大学のビジネススクールに入学できた。しかし、入学したらもっとえらいことになって、文字通り不眠不休の2年間を過ごすハメになった。MBAという学位はもらったものの、その後もドラマチックな話は何もなかった。ぼーっと過ごしていたら13年目に会社の経営が危機的な状況になった。同業の中には廃業したところもあった。私の勤め先は外資の傘下に入ることになった。部門によってはその外資の同部門と統合されるところもあった。それでもボーッとしていた。何をどうしたら良いのかわからなかった。

そんな或る日、或る顧客と電話でフツーに仕事の話をして、会話を切り上げようとした時、
「で、熊本さんはどうするの?」
「何も決まってないです」
「ウチに来る?」
「はい」
というような会話の後、3日後に来いと言う。出かけてみたら、その会社の本社があるボストンまでの往復チケットを渡されて
「頑張ってくださいね」
と言われた。二泊四日のボストン行きで、インタビューはそれほど苦にはならなかったが、ナントカ研究所というところに半日缶詰になって、妙な試験を次から次へと受けさせられたのには発狂しそうになった。それでも採用になって、それが最初の転職で、その後7回の転職を重ねて現在に至る。

8回の転職の最初は、そういうわけで顧客からの誘いに乗った。2回目は口入屋から話が来て、いろいろ要望を出したら条件がどんどん良くなるので引っ込みがつかなくなって移籍した。

そこが日本から撤退することになって失業したが、解雇通告を受けた翌日に、街を歩いていて最初の勤務先で同じ職場にいた人とばったり出会い、
「久しぶりだねぇ、今どうしてんの?」
「昨日クビになりました」
「そりゃ大変だ」
などと立ち話をして別れた。数時間後、彼から電話があって
「ウチの社長が会いたいって」
「いつですか?」
「今」
「すぐ行きます」
で、解雇通告の翌日に採用通知をもらった。ここはエグい会社で、社員の平均在籍期間が6ヶ月。周囲からは、足を洗えと言われながら、そこに3年半勤めたところで、新聞の求人広告に応募して脱出。キャリアの流れを変えようと、日本映像翻訳アカデミーという映像翻訳の学校の夜間のクラスに通ってみたりもしたのだが、翻訳者への道には踏み出せなかった。24名のクラスだったが、そのうち少なくとも2名は翻訳者として独立している。

退職後、嫌がらせの訴訟を受けたが2年近い裁判で原告の訴えを全て棄却との判決を得て一件落着。ついでにその裁判の担当弁護士に相談して離婚も成立。原告側代理人の一人が元検事で東京地検特捜部在籍時にリクルート事件を担当された高井康行先生。宗教に関係されているとの噂を耳にしたが、銭のためならなりふり構わぬという姿勢を氏の神だか仏だかはどうご覧になっておられるのだろうか。身に覚えのない訴訟だったので、恐喝と考えて警察にも相談した。紹介されたのが財団法人暴力団追放運動推進都民センターというところで、結論としては弁護士がついているなら心配無用とのことだった。事案として記録しておくので、ということで先方の求めに応じて訴状のコピーを提出した。この件と関係あるのか無いのか知らないが、原告側企業に私の後任のような形で入社された古本さんは、すぐに辞めてしまわれたものの、程なくして自殺されたと聞いた。ここにご冥福をお祈りする。

その後、以前の勤務先の同僚だった人に誘われて移籍。そこでいわゆるリストラに遭って人生二度目の解雇通告。初めての解雇通告を受けた日は、いろいろなことが頭を巡って夜眠ることができなかったが、二度目は特に何ということもなかった。東日本大震災のあった年の年末で、そこそこまとまった退職金をもらったので、仙台へ震災後の復興の様子を見に行ったり、ちょっと縁がありながらまだ一度も出かけていなかった八丈島へ行ったり、ずっと気になっていた広島へ行ったり、少し酷くなっていた下肢静脈瘤の手術をしたり、日雇のバイトをしたりしているうちに、口入屋から働き口の紹介があって就職。

しばらく外資系を渡り歩いた後の日系大企業だったので、社内の作法の馬鹿馬鹿しさに耐えかねた。たまたま隣のビルに入居している同業がネット上で募集を出していたので応募して移籍。また、この頃、結婚相談所に登録して再婚。

今度の勤務先では気楽で平和な日々を過ごしていたのだが、3年ほど勤めたところで、そこを辞めて米系投資会社の日本法人の社長に収まっていた人から連絡をもらう。お誘いか、と喜んだが彼の知り合いから人を世話してくれと頼まれたとかで今の勤務先に移籍。

ここはエグい会社の次に求人広告に応募して就職した先。出戻りだ。辞めてちょうど10年経っていたが、見知った人が何人もいて古巣に戻った気分だった。業務は以前勤めていた時とも、直前の勤務先とも変わらないのだが、10年前と比べると規模は半分くらいになっていて、以前のようなおっとりとした雰囲気は全くなくなっていた。人を人とも思わない殺伐とした職場に成り果てていて、移らなければよかったと思ってはみるものの、もうすぐ還暦なので、あと少し辛抱すればあとは死ぬだけというけっこうな身分になる。

世間では転職を一大事のように扱う向きもあるようだが、転職するのも一つの会社の中で転勤するのも同じようなものだろう。7社目の日系企業の配属部署の担当役員は転居を伴う転勤を21回経験したと言っていた。その当時の役員が今の私よりも少し若いくらいの年齢だった。私は今の勤務先が延べ9社目、以前の勤務先に出戻っているので実質的には8社目。その役員氏の半分以下である。

時々刻々全てが変化する中を生きているのだから、どのようなことも起こり得るのである。その中で何に焦点を当てるかは人それぞれだが、側から見ればどれも同じくらいどうでもいいことだ。その時々の縁に従って、できることを一生懸命にやって生活を営むだけのこと。いろんなことがあって、右往左往して、最後はくたばる。ただそれだけのことだと思う。

離婚した元妻との間に娘が一人いる。離婚の時は相手方が親権を取ったが、今は当事者間にその気があれば、いくらでも自由に連絡を取りあえる時代だ。離婚後からずっとメールのやり取りとか、月に一回程度は会って食事をしたりしている。その娘が何年か前に大学を出て銀行に就職した。大学では文学部で日本の近世文学を勉強していた。近頃は「刀剣女子」というものがいるらしい。確かに、博物館などで日本刀のコーナーに行くと、こいつ大丈夫か、というようなアブナイ目つきで刀に見入っている若い女性がいる。娘もそういう系で、見たい刀が展示されていると聞けば遠方まで出かけていく、らしい。

その娘が就職する時、要領が良いので驚いた。就職は金儲けの為なので、何よりも就職することが肝心なのだという。仕事なんかやってみないとわからないのだから、職種や業種はどうでもよい、と。となると、採用の多いところが入りやすい、と。それで銀行だ、と。銀行は何行かインターンをやって、その中で一番面白かったところを第一志望にして、そこに就職した。で、就職してからも、就職先は給料をもらうためだけのものだ、というのである。だから遊び相手は学生時代の友人に限り、職場での人間関係をプライベートに持ち込まないことに徹している。気持ちはわからないでもないが、そこまで頑なにならなくても、と思う。しかし、人にはそれぞれの世界観というものがあるので、口出しはしない。

生きていればそれ相応の負荷がかかる。それもまた巡り合わせの様なものだ。誰でも良かれと思った選択を重ねて日々を送るのだが、結果として思ったようになるとは限らない毎日を送るのである。それは受け容れるより他にどうすることもできない。ただそれだけのこと。

余談だが、新卒での就職活動は楽しかった。それまで全然知らない世界の人たちと話ができることが単純に面白かった。また、説明会などで同世代の人たちと話すのも楽しかった。そんななかに同じ大学の学生もいた。たまたま同じ学部という気安さもあったのかもしれないが、情報交換しょうと近づいてきて、学内で顔を合わせるたびに話しかけてきた。それが、就職が決まった途端に目も合わせなくなった。現金な人だと思ったが、社会に出てみたら、そんな人は珍しくなかった。むしろ、そういう一時的な立場でしか相手を見ない人のほうが圧倒的に多い気がする。自分がなかなか就職が決まらずにあたふたしていた所為もあるのだが、嫌な奴だなと、そのときは感じた。しかし、世間はそんなものだと今は思う。ちなみに、彼の就職先は日本航空だった。入社した年にいきなりあんな事故があって大変だっただろう。

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