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たまに短歌 誰もいなくなる

思うこと口に出したら罪になる
やがて哀しき浮世の暮らし

おもうこと くちにだしたら つみになる
やがてかなしき うきよのくらし

職場でパワハラ・セクハラ研修があった。講師は大手法律事務所の弁護士。1時間半たっぷり語った。実際の訴訟で認定された損害賠償額は数十万円規模が多いようなので、訴訟にかかる費用を考えると、その手の訴訟はカネの問題ではなさそうだ。しかし、刑事事件となる場合もあるので、そうなるとタダ事ではない。尤も、刑事犯になることをどのように捉えるか次第だが。

セクハラは相手が異性であるか否かを問わないのだそうだ。例えば、私のような上品な人間に対して低俗下品な話題を振ってくる奴がいるとして、私がそれを聞くに耐えないと感じたとする。その話を記録し、複数の善意の第三者にも聞いてもらい、それをやはり聞くに耐えないと感じる者が多数派であれば、セクハラであると立件できる可能性が高いのだそうだ。この場合、その低俗下品の主の性別は問わない。

暴力に及べばハラスメント以前に刑事責任が発生するが、現実には言葉の暴力がハラスメント紛争の対象となるようだ。具体的にどのような言動が裁判でハラスメントと認められているかというと、かつては当たり前のように耳にしていた言葉ばかりだ。当然、言葉単独で問題になるのではなく、それが語られた言語・非言語上の文脈が問題になる。しかし、そこにそれらの言葉があるだけで、被告側にはかなり不利になるらしい。

厚生労働省の「あかるい職場応援団」と言うサイトにはパワハラに関し6項目で判例が分類されている。
1) 身体的な攻撃
 要するに暴力だが、直接物理的接触がなくとも例えば扇風機の風をわざと当てるというようなものも含まれる。
2) 精神的な攻撃
 大声での叱責や怒声、罵倒、威嚇、侮辱といったはっきりとした攻撃だけでなく、繰り返しのため息や舌打ち、相手を非難するような独り言、目の前で物に当たるというようなものも含まれる。
3) 人間関係からの切り離し
 隔離、無視、孤立させるといったものがこれに該当する。
4) 過大な要求
 相手の能力を超えた仕事の強制。
5) 過小な要求
 業務上の合理性のない、経験や能力から乖離した程度の低い仕事の強制。仕事を与えないというのもこれに当たる。
6) 個の侵害
 私的なことへの過度な干渉、個人情報の暴露などがこれに当たる。

さらに別の見地からの分類もある。
1) パワハラをした人だけでなく会社の責任が認められた裁判例
2) パワハラと認められなかった裁判例
3) パワハラを受けた人にも問題が認められた裁判例
4) 同僚同士のパワハラの裁判例
5) 相談対応における会社の責任についての裁判例
6) 加害社員に対する処分についての裁判例

セクハラについては以下の項目で分類されている。
1) 身体を触るセクハラ
2) 言葉によるセクハラ
3) 社外の人からのセクハラ
項目が少ないのは、それだけ明確なハラスメントであると言えるのだろう。特に身体接触を伴う場合は刑事責任が問われる可能性が高い。具体的には刑法176条「不同意わいせつ」と刑法177条「不同意性交等」が適用される場合が多いだろう。「不同意性交等」は以前は「強姦」と言われていたものだが、「強姦」は力づくで行為に及ぶことで刑法違反となったが、「不同意」というのは物理的な強制に限らず、社会的関係性に基づく影響力による不利益を憂慮させることだけでも成立する。

社会的関係性は必ずしも制度上の上下関係と一致しない。職責上は上司と部下という関係であるとしても、職務実行上、部下の方が実質的に強い権限がある場合というのは案外多いのではないか。部下から上司に対してのハラスメントというのも起こりうるのである。優越的関係性がある当事者間に「同意」は成立しないとの説明もあった。パワハラでも同じことなのだが、関係性の実態を見誤るとハラスメント事案が生じる。世にハラスメントと呼ばれる事案が多いのは、おそらく、社会的立場=相手との関係と思い込んでいる人が多い所為なのではないか。或いは己の妄想と現実との乖離に気づかないというのもありそうだ。人は微笑みながら相手を殴り殺すことができる複雑な心理を持つ動物であるということは肝に銘じておくべきだろう。

何を不快と感じるか、脅威と認識するかは、人により、状況により一様ではないだろう。感情に任せて他者を攻撃することは、社会生活の安寧を脅かす。故に、最大多数の最大幸福のためには対策が必要であるには違いない。しかし、それが言葉狩りのようなことになると、それは別種の問題を孕むことにはならないか。さらにゆくゆくは「社会生活の安寧」や「最大多数の最大幸福」の解釈によって、権力批判が社会の治安に対する脅威であるとして排除や処罰の対象になった時代に戻るなんてことになりはしないか。

結局のところ、自我のある者の間での利益相反を当事者同士で解決するに足る関係性が我々の社会から失われているということなのかもしれない。或いは、そうした関係性を構築する智力を我々は失いつつあるのかもしれない。地球上に誕生した生物種の99.99%が絶滅したという。ぼちぼち我々人間の番が来るのだろうか。

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熊本熊
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