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蛇足 『民間暦』

よく仏像の美術的な話で運慶・快慶が登場する。美術史のことは何も知らないが、個人的な印象として運慶・快慶以前と以後とで仏像表現が全く違ったものになっている。運慶・快慶の登場を機に仏像の人体表現のリアリティへの追求姿勢がグッと強くなった気がする。それはなぜだろうと常日頃から思っていた。当然、造形技術の進歩というような事情はあるだろう。しかし、物事は、作ろうと思わなければ、できないものだ。リアルに作ろう、本物の人物のように作ろう、という意志があればこそ、そういうものができるのである。なぜ、そんなことを思うようになったのだろう?

例えば仏教が伝来した頃の宗教は今のそれとは違うものだっただろう。はっきりと説明できるものと空想や妄想を交えないと説明できないものとが渾然一体となったもの、今で言うところの「科学技術」と「宗教」が渾然一体となったものが当時の宗教であり仏教であったと思うのである。そういう場においては仏像も神像もアイコンでよかった。造形の精密さ緻密さは要求されていなかった。「神とか仏というものがいて、それが…」と語るときに存在をイメージできれば事足りた、のではないか。法隆寺をはじめとする奈良の古刹の仏像が、どこかユーモラスにすら見えるのは、造形技術の限界もあったには違いないだろうが、人々が仏像というものに求めたものがそういうものであったということではないか、と思うのである。

もちろん、興福寺の八部衆像や十大弟子像のように天平の作とされながらも生身の人間を写したようなものもある。南都焼討以前から存在しているこれらの仏像を見れば、リアリティの追求が本格化したのは運慶・快慶以降だというのは誤りであると言える。しかし、敢えて言いたい。

私は人の脚が気になる。脚フェチだ。変態と言われても否定できない。今年3月1日から5月8日にかけて東京国立博物館で「空也上人と六波羅蜜寺」という特別展が開催された。本展では空也上人像が360度どこからでも見えるように展示されていたので、舐め回すように拝観することができた。そのとき目を引いたのは後ろ姿の躍動感とふくらはぎの艶かしさだった。私はその背面からしばらく離れることができなかった。

空也上人像は運慶の四男である康勝の作とされている。それまでなんとなく、仏像は運慶・快慶から変わったなと感じていたのが、空也上人像の後ろ姿、特にふくらはぎを見たときにそれが確信に変わったのである。空也上人像は以前に六波羅蜜寺で拝んだことがあるのだが、他の仏像と並んで正面からしか見ることができず、後ろ姿や脚がよくわからなかった。東京国立博物館での展示には何度も足を運んでしまった。

本書の「神送り」という章の中に次のような記述がある。

高野山は諸社寺のなかでもっとも広い荘園をもっていたが、その初めには源頼朝の寄進にまつものが多かった。これは壇ノ浦合戦に亡びた平氏の霊をなぐさめる心からであって、寄進せられた荘園も平家の領有だったものである。

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源平合戦というのはよほど大規模なものだったのだろう。それによって時の天皇が入水するとか、源頼朝が征夷大将軍に任じられて鎌倉幕府を開くとか、日本史の画期となる出来事だ。南都焼討の後、親平家派の高倉上皇が崩御し、続いて平清盛も高熱を発して死去したことから、平家に対して仏罰が下されたとの噂が市中に広がったらしい。実際には、たまたまそういう時期が重なっただけだったのだろうが、世情としては、やはり死者の鎮魂は残された者にとっての必須の事業であったことだろう。寺社への寄進や寺社あるいは仏像の建立は、戦乱後の統治者にとって自己の治世を安寧なものにする上で欠くことのできない事業と認識されていたとしても不思議はない。南都焼討のときああいうことになったのだから、平家滅亡の今、これでもかというほどに彼等を供養しなければ、という意識が権力を握った側に生じたとしても不思議はない。それが例えば仏像の精緻化にもつながっていると思うのである。

ちなみに、南都焼討後の復興事業の中で、源頼朝は東大寺の再建に尽力している。大仏殿の落慶供養には後鳥羽天皇とともに臨席し、その後、復興事業のほぼ最後に南大門も再建された。南大門の仁王像は運慶・快慶のほか定覚と湛慶が加わり、現在の山口県内から用材を調達して造られたという。興福寺の方は朝廷、藤原氏が中心になって復興された。

空也上人像のふくらはぎを絶賛しておいてこんなことを言うのもなんだが、運慶・快慶以降の仏像は、仏師の我(どうよ、って少し威張った感じ)が感じられて好きになれない。信仰ではなくゲージュツになっている気がする。ゲージュツは少し下品だ。

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