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平井京之介 『微笑みの国の工場 タイで働くということ』 臨川書店

先日、タイの工場見学のことに言及したのだが、たまたまタイで暮らした人のnoteに出会った。

これはおそらく日本企業のタイ現法に赴任した人のご家族の眼でご覧になったバンコクでの暮らしだろう。これはこれで興味深いのだが、タイの人々からは自分たちの雇い主である日本企業の人間がどのように見えているのかということは、もっと興味深い。また、首都というのは特殊な都市であり、首都ではない地域の人々に対しても素朴に興味が湧く。同じタイでも違う土地、違う立場で見たら見え方に陰影がつくのではないかと思い、何年か前に読んだ本を引っ張り出した。それが本書である。

本書執筆時点で平井は国立民族学博物館教授・総合研究大学院大学教授という肩書きだ。社会人類学の研究者だが、本書はまだロンドン大学の博士課程の学生だった頃、1993年6月から約19ヶ月間に亘って実施したタイ北部の日系企業でのフィールドワークに基づく読み物だ。タイにある日系工場という特異な場での工場従業員であるタイの人々と管理職として赴任している日本の人々との関係、タイの人々の間での人間模様などが観察されている。

本書のタイトルにあるように、よくタイとかミャンマーあたりの東南アジアの国を称して「微笑みの国」などという。観光案内などでも同様のコピーが踊る。「微笑み」で何を訴求しているのか、何を表現しようとしているのかは知らないが、結局はどこの国であれ、人というものは自己の利益を追求する性質を有するものだという当然の感想に至った。

それと、人が社会性のある動物である、という時の「社会性」の端的な表現が階級とか序列といった上下の位置付けであることも改めて認識させられる。「平等」なんてありえないからこそ理想として「平等」を標榜するのであり、上位にあると自覚する者が下位にあると認識する者を見下すという精神風景は、そういうことを表現する言葉を排除したところで変わるものではない。「差別」「格差」を無くすということは自他の別を無くすということでもあり、突き詰めれば生存の否定に至ることにもなりかねない。差別が良いというわけではないが、「差別」と「区別」を区別できるものだろうか、という素朴な疑問は消えそうにない。社会なり組織なり集団というものが何がしかの構造を有する場合、そこに上下の関係を含まずに機能させることは可能なのだろうか。

一つの妥協として、ある局面での上下が別の局面では逆転するというような複線的な関係性が共存する構造体はあり得るのかもしれない。いわゆる「多様性」を許容する、許容というような受動的なことではなく積極的に内包させることで、或る関係での上下による緊張を別の関係での上下で相殺して、全体として丸く収める、というようなことである。例えば、茶の湯は身分の違いを超えて人と人とが向かい合う場、ということになっていたはずだ。『釣りバカ日誌』でのハマちゃんとスーさんの関係などもその類だろう。しかし、生きることが何かに執着するという側面を持つ限り、社会性というものが内包する構成員間の利益相反は解消不可能で、平和というものは幻想であり続けるのではないか。


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