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【短編小説】踏切

 行く先では踏切の遮断機が降りる音がする。

 夜十時過ぎの住宅街を歩く。一軒一軒の建物の間隔が広いこの道は、両脇に街灯がポツポツと並んではいるものの、その明かりはなんとなく頼りない。一本道。周りは小さな畑や一軒家がほとんどで、少し先のコンビニの明かりがやたら目立つ。後方には、私たちがさっきまで働いていたカフェがある。振り向くと、暗くて全体のようすはよく分からないけれど、窓から明かりが漏れているのが見えた。社員さんたちはまだ店に残っているらしい。

 今日、ラストまで残っていたバイトは私と、すぐ横を歩く男の子、シノくんだけだった。住宅地にぽつんと立っている小さなカフェは、ご近所のおばちゃんや定年を超えたおじいちゃんおばあちゃんに人気で、それなりに賑わっている。しかし、夜の十時にそんな客層が押し掛けるわけもなく、夜のシフトはだいたいいつも暇だった。今日も九時半には閉店の準備を終わらせて、クローズの十時ぴったりにホールから退散したのだ。

 いつの間にか、もう年末である。

 店内にいるときは分からない。けれど、今日も外は凍えそうなほど寒い。冷え切った指先を少しでも温めようと、手のひらをグーにしてコートの中に縮こまらせる。更衣室のロッカーの中に、手袋を置きっぱなしにしてしまったことを店を出てから気が付いた。戻るのも面倒だし、どうせ明日もシフト入ってるし、と自分を納得させて歩き続けたものの、やっぱり、末端を温めるのってどうしても大切だということを痛感する。指先や耳や鼻が、冷たくて痛い。

 手袋は、取りに戻らない。

 更衣室に戻る私を、シノくんはきっと待っていてはくれないだろう。そうしたら一緒に歩けない。一緒に帰れない。

 彼は手袋をしているのだろうか、と何気なくシノくんを見ると、両手をコートのポケットの中に突っ込んでいた。

「寒いっすねえ」

 肩を縮こまらせて歩く私に、シノくんが間延びした声を出す。店を出てから三度目の「寒いっすねえ」に、笑ってしまった。白い息が、暗闇に溶けた。

「何回言うの、それ」

「だって寒いんですもん」

 へへへ、と、年下の男の子は笑う。彼は私よりひとつ若くて、あのカフェでバイトを始めたのも私より半年ほど後だった。年が近いのもあって、バイト先では、まあ、仲はいい方だと思う。でも、私はシノくんよりも、同じ女の子の大学生たちとの方が気楽に話せるし、シノくんも私より頼りにしている先輩がいるはずだ。

「今日も暇だったね」

「大丈夫ですか、あの店。潰れませんかね」

「お昼は忙しいって、磯田さんが言ってたよ」

 フリーターの女の人の名前を出すと、シノくんは思い出したように鼻を鳴らした。

「ああ、俺、こんど昼入れないか聞かれました」

「入るの?」

「入れません、学校もサークルも忙しいし」

 そっかあ。と、何気なく相槌を打つ。シノくんは忙しい。学校はこの辺からは遠いみたいだし、サークルはバンドでドラムをやっていると言っていた。ライブがあるんですよ、見に来てくださいよ、と、よく休憩室でも言われる。この前言ってたライブはもう終わったのかな、と思っていたら、不意にシノくんがにやっと笑った。

「昭菜さん、もしかして正月もバイトっすか」

「……シフト見たの?」

「見ました、ばっちり一日入ってましたね」

 そうして、おかしそうに眼を細めてにやにや笑う。だって、と、言い訳しようとしたけれど、なんだか空しくてやめた。

 お客さんが来るわけないのに、うちのカフェは一月一日も元気に通常営業する。帰省ですう、旅行ですう、初詣ですう、とほとんどのスタッフが出られなくなるため、普段は夜のシフトしか出ていない私もお昼から駆り出されることになっていた。

「クリスマスに入れるって言っちゃってから、完全に暇人の烙印を押されちゃった」

 そう、世間が賑わうクリスマスイブの夜、どうせ暇だし、とシフトを入れてしまったことにより、最近どうも店長から暇人扱いされているような気がするのだ。

 自分で言って、なんだか悲しくなった。

「頼りにされてるんですよ、昭菜さん、夜のバイトで一番ベテランだから」

「私は長いだけで頼りないと思うんだけど」

「そんなことは、ないです」

「……そんな風に言って、クリスマスも押し付けたんだから」

 冗談めかして言うと、ひええ、とシノくんはおどけて震えあがった。

 シノくんが、クリスマスに、バイトなんかしている場合じゃないのは当たり前だ。

 彼には、クリスマスに会いたい特別なひとがいる。

 クリスマスだって、誰かが働かなければイルミネーションもディナーもケーキも演出できないというのに、その日に予定がないことがちょっと恥ずかしい、みたいな、そういう風潮どうにかした方がいい。ていうか、世の中のクリスマスデート中のみなさんはもう少しこっち側に感謝してもいいんじゃないのか。と、二十四日のバイト中、同じく暇人の烙印を押されたバイト仲間と小声でそんな愚痴ばかりを言っていた。そのクリスマスデート中のみなさんの内のひとりだったはずのシノくんは、また、へへ、と笑ってちっとも感謝するようすなんかないのである。

「すんません、リア充で」

「ムカつくーっ」

 思わず立ち止まって大声で抗議したら、シノくんは目じりを下げて笑った。それを見て、私もはは、と笑ってしまう。もう、憎めないなあと、思ってしまう。

 眩い光を放つコンビニの脇を通る。シノくんの横顔が、強い明かりと暗闇との間で、不思議な陰影を作り出していた。

 コンビニを通り過ぎたら、踏切がある。そこを超えたら、シノくんが住んでいるマンションが見える。

「正月は、出られないですけど」

 ちょっとした沈黙を埋めるように、シノくんが呟いた。

「でも、それ終わったら今までの分、いろいろ代わりますから」

 笑っていたけれど、イベントの時には毎回休みを取りまくるのを一応気にしてはいたようだ。別にいいよ、と返す代わりに「それが終わったらって……そしたらテスト期間でしょうが」と言うと、「バレたあ」とこっちを見ないまままたにやにやする。

 不思議な陰ができる。シノくんの横顔のこっち側とあっち側。暗い夜の闇と人工的な光。少年のようで大人の男。優しさと狡さ。明るいのに暗い。それらがシーソーのようにあっちこっちに揺れる。けれど、決してどちらの地面にも着いてしまわないようなバランス感覚が、たぶん彼の一番の武器なのだ。

 乗ってしまいたい、と思う。

 優しさでも狡さでもいい。あっち側でもこっち側でもいい。どっちでもいいから私がその片側に乗って、シーソーを止めてしまいたい。

 そんなバカバカしいことを考えている間に、また、シノくんの横顔は頼りない街灯に照らされておぼろげになった。

「ああ」

 シノくんが呟いて、スニーカーの足を止めた。

 私も彼の横で立ち止まる。

 踏切の遮断機が、カンカンカン、という音に合わせてぎこちなく降りていく。気持ち悪いなと自分でも思うけれど、私はシノくんと立ち止まって並ぶのが好きだ。自分と彼の身長差をリアルに感じる。ここで毎回その感覚を味わっていると、少し前に気が付いた。ああ、歩いているより立ち止まっている方が、近くにいるその存在を、ひどく痛烈に感じるものなんだな。動いているより、すれ違うより、向き合っているより、横に並んでいるこの時が、私は一番シノくんと近づいているような気がする。だから、私はこうして立ち止まって並ぶのが好きなんだ。

 好きな人とは、誰だってそうなんだと、勝手に思っている。

 カンカンカン、というけたたましい音の中を、電車が轟音を轟かせて近づいてくる。ここで並んでいるときは、話しかけたってどうせ何も聞こえないから、お互いに何も喋らない。シノくんが、近くにいる。私とは全く違う人間が、ここにいる。他のことに気を取られているときには分からない匂いが、ふっと鼻をくすぐった。喋らないせいで感覚に意識が集中するから、こんなにも近くに感じるのかもしれないと、不意に思った。

 体の芯を揺らすような轟音と震動を残して、電車が行ってしまう。カタンコトン、と余韻のような音を響かせて通り過ぎた後で、頭が痛くなりそうな静寂が訪れる。この、電車が通り過ぎるまでのほんの少しの時間が、すごく悲しい。悲しくて、寂しくて、もしかしたら切ないというのかもしれないけれど、永遠に続けばいいとも思えるような、不思議なひととき。

 遮断機が音もなく上がって、足を踏み出そうとした時だった。

「危ない」

 すぐ横で声がして、腕に固い感触がした。強く引っ張られる。引かれるままにシノくんがいる方――道路の左端に寄るのと、後ろにいた車がクラクションを短く鳴らすのはほとんど同時だった。狭い道を一列になってあけると、車は踏切を一気に通過していく。

「ごめん」

 シノくんを見上げて、ありがとう、と言おうとしたのに、なんでかその言葉がかすれて出てこなかった。

 シノくんが軽く首を振りながら、私の腕から手を離す。離れていくその指先は、長くて骨ばっていて綺麗だった。その手をポケットに再び突っ込む。ああ、手袋は、していないんだなんてどうでもいいことをぼんやり思った。

 一本道。

 その先は、進めない。

 踏切の端を並んで歩く。

 星も凍えそうな年末の夜。

 シノくんには、一緒に初詣に行きたい大切な人がいる。

 彼女がいる人を好きになったという、そのことを私は誰にも言えない。似たような、いや、もっとスゴイ経験を積んでいる友達は周りにもいるし、だいたいにおいて学校の友達はシノくんを見たこともないんだし、彼女がいる人を好きになるなんて珍しくもなんともないことを私だって分かってる。でも、私は、たぶん私の思っていることに気づいているシノくんを見ていると、なんて馬鹿なことをしているんだろう、という気になる。この一本道の先を、私は進めない。進まない。シノくんのシーソーには乗れないし、乗らないし、どうぞと言われたら、きっと、逃げてしまう。だいたいにおいてどうぞなんて言われない。

 そういうこと全部を前提にしたうえで、すごく、バカバカしいことをしているなと思ってしまう。シノくんの彼女のためではなく、シノくんのためでもなく、私自身のために。すごく不毛なことをしているなと思いながら、私は踏切で立ち止まる。何も言わなくてもいい時間。そのぶん、とても、息苦しくてすてきな時間のために。

 いつの間にか、シノくんがこっちを見て笑っていた。

「昭菜さん、スゲー顔。やめてくださいよ」

「……は、スゲー顔、してた?」

「してました。はは」

 じゃあ、と、シノくんは、一本道の終わりで手を振っている。ポケットから出されたその手は、やっぱり大きくて綺麗で憧れる。目を細めて「お疲れ」と手を振り返すと、シノくんはびっくりするくらい小さな男の子みたいな顔で笑って、背を向けた。

 シーソーに揺られる彼を、踏切のこっち側で、私は見ている。

 見つめて、背を向けて、冷たい道を歩き出した。

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