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【短編小説】放課後

 新校舎の三階から階段を駆け下り、一階の渡り廊下を抜けて旧校舎の四階へ。放課後の学校は自由な感じがする。四角い教室とチャイムで区切られた均整が緩むから。静かな校舎とざわめく校庭。合唱部の声出しが聞こえる。ランニングをしているのはサッカー部か野球部か。それらが窓一枚向こう側にあり、私はその内側で、掃除したばかりの廊下をつま先で弾く。
 なんとも愚かしいことに教室のロッカーに台本を忘れてきてしまった。取ってくるわ、と部長に声をかけて練習場所の多目的室を飛び出したものの、旧校舎遠すぎである。行くだけで疲れた。
 運動なんて体育の時くらいしかやらない私は、毎日自分の教室まで四階分の階段を上らなければならないことがものすごく苦痛だ。なんで三年の教室が最上階なんだろうなあ。活発さはどんどん失われていくんだから勘弁してほしい。
 あ。
 心の中で毎度の文句をぶつぶつ呟いていたら、ふと目が合った。
 見慣れた均整のとれた箱の中に、杉原くんがいた。

「日本史選択って偉いよ」
 杉原くんの、女の子よりも女の子みたいな細い指が黄色い蛍光ペンを拾い上げる。世界史選択の杉原くんは、ウンタラカンタラ条約、という教科書の文字に丁寧に線を引いた。
 日本史選択の私はそのさまを見つめながら、「なにそれ」とほとんど唇を動かさずに答える。
「日本史の教科書って見てるだけで頭痛くならない? 漢字が読めないんだよ、俺」
「私は世界史のカタカナの羅列が無理。メソポタミア文明の時点で詰んだ」
 私の低い声に、杉原くんが「諦めんの早すぎ」と笑う。さらさらの前髪が揺れた。
 杉原くんとは去年、二年生の時に同じクラスだった。今年はクラスが離れてしまって、早二か月、一度も口をきいていなかった仲である。だらだら廊下を歩いていたら一組の教室でひとり勉学に励む杉原くんと目が合い、こうして邪魔をしに来た次第だ。
 知らないクラスは、自分の教室のコピーのようで、やっぱり違う教室である。誰かも知らない杉原くんの前の席の人の椅子を勝手に借りて、私は杉原くんの手元をぼんやり見ていた。
 六月。まだ梅雨は来ていない。というか今年、梅雨は来るのだろうか。というレベルで、ここ一週間ほどは夏のような暑さが続いている。階段のアップダウンでじんわり背中に滲んでいた汗が、窓からの風にちょっとだけひいていくのを感じた。
 杉原くんの右手が蛍光ペンを軽快に回す。くる、くる、くる、くる、
「もうすぐプールの季節だね」
 ぽと。
 私の一言に、杉原くんが露骨にペンを落とすから、笑ってしまった。
「去年は杉原くんといっぱいサボったなあ」
「うん。俺結局二回しか入らなかった」
「で、怒られて五キロ走らされたよね」
「泳ぐよりはマラソンの方がマシだ」
 あの日々から、もうすぐ一年である。
 私と杉原くんの共通点。同じ学年。去年は同じクラス。そして二人とも水泳が大嫌いで、お腹痛いだの熱っぽいだの足が痛いだの、言い訳を並べて体育をサボりまくっていたところ。
 もうすぐ、一年。早すぎる。
「杉原くんって、国立受験?」
 私の口から飛び出た「国立受験」の堅苦しい四文字に、杉原くんは片眉を上げて反応した。プールサイドではしなかった勉強の話なんかが、会話のネタに上がってきてしまう。受験生だから仕方ない。
「そうだよ」
「すっごーい。トーダイ? トーダイ行くの?」
「まさか。地元の国立大」
 私の小学生みたいな反応に、杉原くんが笑う。
「浅野は私立だよな。四組だもんな」
「うん、私立文系。私数学ヤバイから」
 私立の大学を第一希望にする。その理由はこれしかない。数学がヤバイから。国語はまあまあ得意だから。英語は、まあ、クラス順位を低空飛行している感じだけれどそれは文理関係なく致命的である。
 私はそういう選び方しかできない。その恥を謙遜とか妥協とかで塗りつぶしていくうちに、いよいよ進路調査票や模試や偏差値なんかが目前に突き付けられていた。
「東京に行くんだろ」
 杉原くんが教科書に目を落としたまま言う。
「なんで分かるの?」
「私立のやつってだいたいそうだから」
「まあそうだよね。私もそう」
 周りの動向とか、先生の言葉とか、偏差値との妥当性とか。そういうもので囲んで囲んで残ったところが第一希望である。
 第一希望。一番進みたい未来のいきさき。
「……東京って、どんなとこなんだろうな」
 杉原くんがぽつりと言った。
 言ったあとで、「やっべえ今俺、すごい田舎くさい」とはにかむ。
 ドキドキとか、キュンキュンじゃないけど。私は杉原くんのこの顔がひっそりと好きだ。その笑い方を久しぶりに見て、なんだか嬉しくなった。
「分かるよ。東京って、別に遠くもないのに、なんかね」
 ちょっと足を伸ばせば行ける距離だし、テレビをつければ毎日のように渋谷の交差点や新橋の駅前が映し出される。なのに東京って、東京っていうだけで全く未知の世界になるんだから不思議だ。たぶん東京へ上京した歴代のいなかっぺが、歌でも詩でも小説でも、やたら『トーキョー』を未知な街として描いてきたからなのだろう。私の体内にも田舎者の血が流れているというか。
「きっと東京に行っても、何も変わらないんだろうな」
 呟いた自分の声が、見慣れない教室の中で響く。
 杉原くんはべたつき知らずの前髪の隙間から私をちらりと見て、「うーん」と唸った。
「全然関係ないかもなんだけどさ」
 杉原くんが目線を上げて私をまっすぐ見る。薄い、茶色の瞳。塩素の匂いが鼻をかすめたような気がした。
「俺、実はバイトしてんだよ。地元っつーか家の近くの本屋で」
「え、うそ。校則違反じゃん」
「まあそうなんだけど、そこでさ、最年少なのね俺。で、高校生だって言うといろんな人に言われる。これから楽しいこといっぱいあるよって。これからだなーとか、いいなーとか」
 パチン。杉原くんの蛍光ペンのキャップが、小気味いい音を立てて本体と合体した。
「そうなのかなって、最近、不思議」
 その不思議な感覚は、私の中にも確かにあるような気がした。
 無限の可能性。広がる未来。真っ白なキャンバス。その言葉たちは、嘘なのか本当なのか見極める術もなく、ただただ私たちの前にあるだけだ。私の中にあるのは、その言葉の中に見え隠れする無限への恐怖だけ。何でもできて、どこにだって行けるということが、私のことを苦しくさせる。
 本当は、やりたいことなんて何もなかったのかもしれない。
 そんなことをぼんやり考えながら、「分かる」と言おうとしてやめた。
 杉原くんは何も言わない私を気に留める風でもなく、再び教科書に目を落とす。ぴら、と薄いページをめくる音がして、書き込みがびっしりしてあるノートが目に入った。杉原くん、なんだかんだ言ってマメでマジメだ。彼は地元の国立大学に通っている姿がありありと目に浮かぶ。
「杉原くんって何学部行くの?」
「俺? まだざっくりだけど……たぶん法学部」
「さすがですね」
 なにがだよ、と彼はまた笑う。
「浅野は?」
「んー……文学部?」
「英語やるの?」
「え、なんで。やらないよ」
 私の英語の成績知ってるの?と口をとがらせると、杉原くんは心底意外という顔をしていた。
「だって英語劇部だから」
 その言葉に、どきんとした。
 確かにそうだ。私は三年間、英語劇部の部員としてそれなりに真面目に活動してきた。一か月後には定期演奏会があり、そこで三年の私達は引退になる。
 しかし私は英語が苦手だ。壊滅的に苦手だ。
 そしてあんまり、好きじゃない。
 ちらりと窓の外を見ると、新校舎が目に入った。さすがに練習場所までは見えないけれど、毎日放課後に通うあの多目的室が、やたら遠く感じる。
「私、英語苦手なんだよ」
「えっ、英語劇部なのに」
「……入部したのも、なりゆきだったから」
 同じ中学からこの高校に入った優花が、英語劇部に入ると言ったから。
 それだけだ。
 そしてその優花は一年が終わる頃に英語劇部をあっさりと辞め、なぜか軽音楽部に入ってギターを弾いていたりする。
 去年の文化祭、私は村の娘Aの格好で、舞台そでで優花を見ていた。彼女は制服を着崩して、いかにもガールズバンドの風貌でギターを鳴らしていた。
 村娘Aの私は、壊滅的にできない英語の歌をぶつぶつ口ずさみながら、その乱暴な青春の音を聞いていたのである。
 杉原くんは、ふうん、と頷いていた。杉原くんなら、定期演奏会に来てほしいと言えば本当に来てはくれなくても「行けたら」と笑ってくれそうな気がしたのに、なんとなく言いたくなかった。見に来てほしい気もしなかった。
 私はそういう選び方しか、できない。
「いやーでも俺、浅野はけっこうすごいと思うよ」
 杉原くんの涼しげな声が、窓からの風に乗って私に届く。
「……え、何が? 英語劇部?」
「まあ部活もそうだけど、プール、結局ほとんどサボったじゃん。すごいよ、なかなかできないよ」
 なんて、本気で言っているのかニヤつきながら言っているのか分からない表情で言う。
 私もそれに喜んでいいのかバカにされていると思えばいいのか測りかねて、杉原くんの茶色い瞳をじとりと見つめていた。
「……杉原くんだってサボったじゃん」
 私が選んだ道は、道連れである。
「いやでも俺は、とことんサボり続ける浅野に勇気づけられたところもあるっていうか。むしろお礼言いたいよ。ありがとう」
「いや、うん……? でも我ながらサボりってよくないよね。私と杉原くんのダメな相乗効果の結果だよね、あれは」
「まあいいじゃん、五キロっていう対価を払ったわけなんだから」
 杉原くんが、あはは、と声をあげて笑い、背もたれに思いっきりもたれかかる。
 確かにあの五キロは辛かった。自業自得といえども。
 ひいひい言いながら走った私達を思い出して、笑いがこみあげる。
「ていうかいいの? 浅野、部活中でしょ」
「んー、いいよ。杉原くんといると、私は気が大きくなる」
 なんだそれ。笑った顔は、やっぱり私の好きな表情だった。
 勉強の邪魔してごめんね、と立ち上がり、私は手を振る。杉原くんが頬に笑いの余韻が残ったまま、「いいよ」と言って軽く手を挙げた。
 三年一組の教室を出る。振り向くと杉原くんは再び教科書を開いてノートに何か書き込んでいた。本格的に勉強のお邪魔をしてしまったようだ。申し訳ない。
 長い寄り道をしてしまったけれど、まあいいや。
 私は部活の練習より杉原くんと話す方が好きで、プールに入るくらいなら五キロを走った方がマシな人間だ。
 昨日までと何も変わらない、明日からも何も変わっていかない廊下を踏みしめて、私はとりあえず台本を取りに向かった。

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