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夜ふかしとナルホイヤの心

こんなことあるか!

ってくらい、先日若いことをしてしまいました。

まあ、ざっくり言いますと、私のお友達がお酒を飲んで酔ってしまい、苦手な方と喧嘩して泣き叫んでいたのです。

それが夜の23時半。

そして彼女は
「私はくまさんが神様なんです!」
と叫んでいたそうで。

その場にいた夫は
その荒ぶる雰囲気をなんとかしたかったようで
「君が来ないとこの場がおさまらないので来なさい」と電話をかけてきました。

私は次の日は美大のスクーリングで
朝早く出かける予定であったので
寝る気満々でした。
みいちゃろ組(スプラトゥーン)の
金曜夜の定例の会合もあきらめていましたし
もうお風呂にも入っちゃったし
GUのくまのパジャマも着て
ソファでうたたねをしていました
(というか完全に寝ていた)

思った以上に肌になじむこのフィット感

無理やり起こされて
眠い目をこすりながら
メガネ姿の
ぼさぼさ頭の
すっぴんで
向かったところ
「じゃあ、バトンタッチね」
と夫に言われ
彼はそのまま帰ってしまいました。
私は泣いている彼女の手を握りながら
話を聞いたり背中をさすって

そのまま午前3時まで

お家に帰ることができませんでした。

わお!なんてこった!


彼女が普段仕事や家庭のことで
無理していることは
私も重々承知してましたし
それ以外にも
悩んでいることが初めてわかったりしたので
無下に帰ることは
できなかったのですが

それにしても

眠い!


と次の日はふらふらしました。


まあ、この話をしたいわけではなくて


そのカオスの約3時間の中で
その場にいる人たちと
けっこう真面目なような
いい意味で不真面目なような
ケアの話をたくさんしました。

その会話のグループの中に
行政に勤めている
おじちゃんがいまして
その方は
私が普段お世話になっている方なんです。

そこでお互いに共感した話があります。

それは「わからない」という話。

私は訪問リハビリテーションの場で
彼は以前は役所の相談業務で

それぞれ障害を持っている方
生活困窮者に
日々対峙している
もしくはしていたのですが

その関わりが
いいものであるのか
よくないものであるのか
その場では
よくわからないってことです。

これは私も最近ずっと思っていることだったので、内容を話してみて彼と感覚が共有できたことが嬉しかったのです。

お互い支援職なので、基本的には「何かサービスを施す側、もしくは支える側」として、その場にひょこっとあらわれているわけですが、そこに「いいことをしてあげてる」という発想がないこと、今この場で起きていることが、目の前の相手にいいのか悪いのか何をもたらしているのかは、正直自分はよくわからないってことなんです。(いいと悪いがくっきりわかれるものでもないという前提もありますが)

ここで「お前は何を言ってるんだ」と怒られても仕方のないことを話しているかもしれません。

なぜなら、私たちは国の税金を使って働いているわけですから、もちろん「相手にとっていいこと」を提供するのが前提にあると思うのです。

おっしゃっていることはよくわかっています。
ましてや、介入するならある「目標」があってそこに向かっていくための作戦のもとに、効率よくさくさくと仕事をやっていくのが理想なんだと思います。

思ってはいるんですよ。

でもね、なかなかどうして
目標っていうのはですね
この仕事は
お互いに相手となんとなくといった形でも
相互理解するところまでが
けっこう大変でして

まあ、それはさておいて

じゃあ、私たちは毎回何をしてるんだ!っていう話なんですが

「その場でその場で合わせてるよね」

という話を彼がしていました。

「今日はこんな感じなんだな....じゃあ、こっちにいて、次の日はそっちかーと思ったら、そっちに合わせる。自分が常に相手の変化に合わせて、またその先に自分を移動させて、反応を返す。
この繰り返しをずーっとしている。

ボールをキャッチする
そしてまた返す

この起きた出来事が
なんとなくだけども
良かったのかな
良かったんだなってわかるのは
だいぶ後だよね

って言い出した時に

そうそうそれなんですよ

って思わず共感してしまいました。

しばらく経たないと
わからないことがある。
たぶんなんですけども
私たちの仕事って
何か商品を渡したりできるような
即効性のあるものではない。
その場ではっきりとしたものにならないんじゃないかなって思っています。

その場で結果が見えない

そこで「これが絶対いいサービスだ!」って
支援職が自分に疑いもなくやっていたら
間違いなくどこかでうまくいかないことが出てくるような気もしています。

相手の反応をつぶさにみる。

ここで唐突ですが「ぼけと利他」の本の話をしてみたいと思います。

この本で伊藤亜沙さんがイヌイットの「ナルホイヤ」の話をとりあげています。

 そのイヌイットの世界観を凝縮した言葉が「ナルホイヤ」です。「ナルホイヤ」とは、現地の言葉で「わからない」「なんともいえん」ということ。
明日の天気を訊いても「ナルホイヤ」、お父さんは今どこにいるのと訊いても「ナルホイヤ」、昨日何を食べたかと訊いても「ナルホイヤ」、犬橇はやらないのかと訊いても「ナルホイヤ」......。何を訊いても返事の八割はナルホイヤで、まったく話にならないのだそうです。ある意味で、ぼけが徹底している文化なのです。
 角幡さんによれば、本多勝一は、この「ナルホイヤ」の背景に、計画概念の欠如を見出しました。イヌイットたちが暮らす世界は、昼と夜の明暗の交代が失われた、区切りのない一元的な時間のつらなりです。景色ものっぺらぼうのように広がる無変化かつ無際限の世界です。この単調さゆえに「くりかえし」が起きず、ゆえに何かを数える契機もない。実際、イヌイットたちは数の概念が希薄で、直感的にわかるのは「五」までだと言います。

ぼけと利他より

 しかし角幡さんは、この「ナルホイヤ」にむしろ積極的な意味を見出します。それは、「(今)への没入を徹底的に肯定する態度」なのではないか、と。それは、「(今)を予期の確認作業にしない」と言い換えることができるかもしれません。

 近代化した都市に住む人にとっては、「天気予報で今日は晴れだと言っていたから、傘は置いていこう」といった行動様式が当たり前です。たとえ出かける前に空を見上げることがあったとしても、それは「今日は晴れ」という予報を確認するだけの作業になってしまいがちです。けれども、そんなふうに予期を前提に生きることは、(今)の微妙な変化を見落とすことにつながりかねません。遠くに怪しい雲があるかもしれない。風の中に湿気が混じり始めているかもしれない。そうした小さなサインを見落とすことは、都市に生きる人にとってはせいぜい服が濡れる程度かもしれませんが、狩りによって食料を得ている旅人にとっては致命的です。
 だからこそ「ナルホイヤ」が重要になる。

この「ナルホイヤ」の精神から、私はいくつか学ぶことがあるかもしれないと感じています。

世の中には
わからない
なんともいえん
がたくさん存在しています。

けれども、そのわからないの中で私たちは毎日右往左往している。
今ここでしなきゃいけない選択や今すぐ出さなきゃいけない結果にも追われてもいます。

けれども、そこで区切りをつけたとしても
そこで立ち止まってしまわずに
(今)を予期の確認作業で終わらさず
(今)への没入を徹底的に肯定する態度
を常に持ち続けていたいなと
思いました。

ささやかなお天気の変化にも気づけるように私はなりたい。

しかし、わからないとその場に居続けることはしんどいのです。

元々役所の相談業務をしていた彼は
(仮にAさんとします)
新人一年目の頃に
刺青だらけの
コワモテのおじちゃんの
生活相談の担当になりました。
コワモテのおじちゃんは役所で毎回怒鳴り散らす人で、役所内ではかなり難易度が高いことで有名だったそうです。

彼はおじちゃんがこわすぎて、どう対応したら良いのかわからなかったそうですが、ただひたすら彼の家に毎日通い、一緒にタバコを吸いながらだべる日々を過ごしました。

「いやぁ、本当にどうしたらいいかなってわかんなくて」
「とりあえず話をしてみようと思って」
「ただ一緒にいただけ」

しばらくそんなことを続けている最中で
Aさんは
たくさん交わした雑談の中で
あるデイサービスのことを話していました。

「あそこにいったらなんかきっとおもしろいもんがあると思うよ」

ある日Aさんがおじちゃんの元をいつもの通り尋ねました。
すると、おじちゃんはにこにこと笑顔を見せながら
「あそこに行ってきた」
と話してきたそうです。

「え?あそこって、あのデイに?」

おじちゃんはある日急に思い立って1人でデイに行ったとのことでした。その日のデイは生のかつおの差し入れをたまたま知り合いの方にもらった日だったそうで、誰が魚をさばくかということで職員が悩んでいました。

「それでね、俺がさばいたんだよ。そのかつおを。その刺身をみんながおいしいおいしいって食べてくれたんだ」

「こんなに嬉しいことはない」

とおじちゃんは感極まって泣いたそうです。

おじちゃんは元々調理師の資格を持っていました。しかし、脳の病気を患い片手が不自由でした。彼は包丁を久しく握っていなかったのですが、この日は包丁を手に取り、ぎこちないながらも持ち前の経験でうまく魚をさばけたそうです。

それ以来、彼は役所で怒鳴ることもなくなり
デイでボランティアのように仕事にかかわり
最後は自分自身が利用する側として
通い続けたそうです。


Aさんと時々ホームレス支援をしている抱樸の奥田知志さんの話をします。

奥田さんは「数うちゃあたる」と話しているのです。

彼はとにかくあらゆることを、考えつく限りの手立てを全部チャレンジしてるんですよね。
奥田さんのように「アウトリーチ」といって、支援が必要であるにもかかわらず届いていない人に対し、行政や支援機関が積極的に働きかけて情報・支援を届けようとしている人たちもいます。

Aさんはおじちゃんに最初は嫌がられながらも、彼の家に通い続ける。
そこにいる。
気づいたらいるようにしている。

それがいいのか悪いのかわからないながらも、い続ける。そして何とかこの人のカケラのようなものをつかみたいと思う。わかろうと近づいてそして、やっぱりわからないで終わる。

合わせてずれて、わからないを繰り返していく中で、ある日、このおじちゃんの出来事のようなことが起きるのです。

その時にはじめて
「ああ、もしかしてこれは良かったのかもしれない」という光が見えることがある。

私も「ナルホイヤ」と共に、今への没入を徹底的に肯定する態度を忘れぬようにはたらいていきたいと思いました。

めずらしく夜更かしをした甲斐があったという、本日はそんな話でした。

読んで頂いてありがとうございました。





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