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いくらが教えてくれたのは、祖母のさいごの時だった

「○○のおばあちゃんって北条政子っぽいよね」

私がまだ小学生であった頃。社会科で鎌倉時代について勉強している時に、不意に友人にこんな事を言われた。

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。皆さん、心を一つにして聞きなさい。これが私からの最後の言葉です
ということばで始まるこの口上は、鎌倉の武家政権と京都の公家政権が争いとなった承久の乱において行った北条政子の演説の始まりにあたり、歴史の教科書でも取り上げられていたと記憶している。

私は友人のことばを聞いて、教科書に載っていた北条政子の絵を眺めながら「なるほど、言いたいことはわかる。」と妙に感心した。

凛々しく、時には気性の激しさがみられ、身内でさえも犠牲を厭わないような雰囲気は、確かに北条政子に通じるものがあるかもしれないと幼心にも感じたのだ。

祖母はよく笑い、よく泣き、よく怒る人だった。

「あんたのおばあちゃんはすごかったよ。仕事が終わって着物姿で座り込んで煙草の煙をくゆらさせながら、男どもをしたがえていた。かっこよかったね。」

これは祖母の通夜振る舞いの時に、祖母と親しくしていた方から聞いたことば。私は「ありありとその姿が目に浮かぶし、なんら違和感はない祖母らしいエピソードだな」と心底感じていた。

私の祖母はそういう人だったのだ。

九十九里の海辺の魚村の集落で生まれた彼女は、漁師の父親のもとを早くに離れ、身元引き受け人のいる置屋で、一人前の芸妓になるべく、読み書きや一般教養、そして主軸の芸事を手習い、見知らぬ土地で苦労を重ねてきた。

祖母を知る人は昔からその境遇を見ていた者も多く、私が一時期通わせてもらっていた日本舞踊の先生もその1人だった。

「あなたのおばあちゃんは苦労していたわよ」

若い頃から芸妓としてのしあがってきた。

芸妓として花街を謳歌し、苦労し、花のように艶やかで、いい意味でも悪い意味でも存在感のある人であった。


***


時は過ぎてある介護施設に場面はうつる。


「瀬田さんのいぶし銀が今日も炸裂してたね」

そもそもいぶし銀は男性に使うことばだと思っていた。でもなぜか、私はまた妙にそのことばにも納得していた。

施設に入所していた車椅子姿の祖母は、いつも集団体操をする時は一番後ろに陣取っていた。祖母は遅れてやってくるのだが、祖母が通ろうとするとまるでモーゼの十戒の海のように、人がさーっとひいていくのだ。祖母がなにか脅しをかけている訳でもない。裏で他の利用者さんと取り引きをしている訳でもない。自然と道がひらけて、いつもの場所は祖母を待っていたかのようにぽっかりと空いている。そして体操中はそこからみんなを見渡している。大きなするどい目であたりを伺う。

そんな様子を揶揄して私の後輩のスタッフはそう表現したのだ。

「瀬田さんはいつもにらみが効いてるんだよ。」

にらみをきかすとは、随分と大げさだであると感じたが、祖母は弱々しく年老いても、その存在感は、周囲に不思議と影響を及ぼす程度には残っているようであった。

実家に昔飾ってあった、新橋演舞場で連獅子を演じた祖母の写真が私の脳裏を不意にかすめる。

そんな事を考えていたからか、偶然にも、体操の先生である私と祖母の目が合った。祖母の目尻は控えめに下がり、皺が刻まれ、気のせいかにこりとした気がする。

私を心底溺愛していた祖母。

幼い私は
全てを疑わなかった。
私の世界の中心に祖母がいた。

祖母がいれば何もこわくなかった。

困った時にはいつもそばにいてくれた。

私が泣いた時は
すぐにあたたかい手で抱きしめてくれた。

しかし

私が成長するにつれ
次第に私と祖母の関係性も変化する。

私が大人に近づくたびに
祖母といる時間は少なくなる。
そして「お前は随分反抗するようになったね」
と言われるようになった。

私は祖母と話すのが
だんだんと面倒くさくなり

出かける時に話しかけてくる祖母の声を
あえて無視する。

祖母の笑顔が素直に受け止められなくなる。

徐々に見えてくる老いが私の胸をしめつける。

しわしわになった手。

よたよたと歩く姿。

たよりなさげな私を呼ぶ声。

決定打は足の骨折だった。

その日を境に祖母は歩けなくなった。

同居していた母は祖母を施設に入れた。

その施設は私と父が勤めている職場でもあった。


私は祖母が職場にいることに最初は照れ臭さを感じていたが、リハの後輩たちや先輩はそんな私を気遣い、リハの担当を外してくれた。

私が働いている時に背部に視線をよく感じた。
気づいたら祖母は私のことを見つめていることが多いようであった。私は私が祖母の孫であることを他利用者さんにあまり言わないように祖母に口止めをしていた。祖母はその約束を私が予想していた以上に守っているようであった。しかし、彼女が頻回に私に対して視線を投げかけている事や、私の祖母に対するぶっきらぼうな態度もものめずらしかったのか、一部の人にはバレているようであった。

けれども...それはそれで、まわりのスタッフや利用者さんにも彼女なりに愛されていたように今は思う。特に祖母と仲の良かった利用者さんには、その方の大事にしていた猫のぬいぐるみを頂いたりして、私はその都度彼女にお礼を伝えていた。

私は祖母がそのまま施設にずっといるものであると心のどこかで思っていた。


しかし、そんな日々は長くは続かなかった。


祖母はある日の夕食中に意識が朦朧とし、病院へ運ばれたのだ。

検査の結果、腎臓の数値がかなり悪いことが判明した。

施設では看護師が定期的に採血を行い、各臓器に異常はないか、栄養状態が保たれているのか、綿密に確認をしているはずであった。

しかし、なぜか祖母だけが、その採血のチェックをすっぽりとくぐり抜けていたようであった。

のちに主任看護師が母に謝っていた。私たちは看護師を責める気持ちが全くなかったと言えば嘘になるが、弱っている祖母を目の前にして、とてもそのような気持ちもわいてこない状態だった。何より責めたところで元気な祖母はもうかえってこないのだから、致し方ないと感じていた。

祖母はかなり衰弱していた。そして食事をほとんど摂る事ができなくなっていた。

病院を退院し施設へ再び戻ってきた祖母は、状態が安定しないため、以前の廊下奥の居室からナースステーションの隣の個室へ移動となった。

私は毎日祖母の部屋に顔を出した。

朝出勤してから。

昼ご飯を食べてから。

リハとリハとの間にこっそりと。

夕方仕事終わりに、子供を保育園に迎えに行く前に。

祖母は日増しにやせていった。

会話も少なく寝ていることが多かった。

「瀬田さん食べられないのよね」

看護師さんがぼそっと私の横でつぶやいた。

もう自分で食事を摂る意欲もない祖母は、介護士さんの介助でも食事を充分に摂ることが難しかった。

そしてあの日。
あの日は昼食の時間で、私の両親と東京に住んでいる私の妹が面会に訪れており、祖母のベッド周りは大変賑やかであった。

私は仕事が終わり、昼食を確認する。やはり祖母はほとんどの食事に手をつけていなかった。

母は私に「みんなやってみたけど、おばあちゃんは今日も食べられなかった」「あなたが口に運んだら食べるかもしれない」「食べさせてあげて」と話しかけてきた。

母は祖母の元に毎日訪れていた。

会うとよく喧嘩し合っていた似たもの同士の親子は、今は関係性が変化して、母は祖母にずいぶんとやさしいことばをかけるようになっていた。

私はその日のメニューの中に茶碗蒸しがあることを発見した。その茶碗蒸しには、少量の「いくら」が鮮やかに彩り良くちょこんとのせられていた。

祖母はいくらが大好物だった。

そして私もいくらが好きだった。

2人でよく一緒に食べていたいくらを選んで、私は祖母の口元へスプーンを近づけた。

祖母は口を開けなかった。

それでも私は祖母にいくらを食べて欲しかった。

無理矢理唇の中へ滑らそうと思ったが

祖母の自慢の自歯がスプーンをさえぎる。

けれども何とか2〜3粒入れ込むことができた。

私の家族は「お姉ちゃんだとやっぱり食べるんだね」と喜んでいたが

私は

ああ、祖母はもう自分の命をしまおうとしているのだな

と、その時急に悟り

自分の体が急速に冷えていくのを感じた。


私たちの大好きないくらが教えてくれたのは

祖母のさいごが近づいていることだった。


私はそれ以上祖母に何かを食べさせることができなかった。

あの日を境に私は祖母への食事介助をやめた。

そして、看護師から胃ろうの話も出たが、祖母本人がそれを断ったという事を母の口から後日聞いた。

やっぱり祖母はあちらにいこうとしているのだなと

私は確信に近い思いを抱いた。


その日は仕事が終わって、我が子たちを保育園に迎えに行って、再び私は祖母の部屋に訪れていた。一緒にいられる時はなるべくひ孫たちと過ごした方がいいと思っていたからだ。

子供たちは見慣れない車椅子にさわったり、お菓子を食べたりはしゃいで笑っていた。

私は窓に視線を向ける。

窓の外には水田が見えた。若々しい青々とした田園から、不意に何かの知らせを受けたかのように鳥たちが音もなく飛び立っていった。

橙色の落日が部屋を赤く染める。斜陽の光は鋭くそして強く私たちを照らしている。子供たちも私も車椅子もベッドも祖母もみんながオレンジ色に包まれていた。

私は祖母に視線を戻した。

祖母は泣いていた。

しずかに

表情も変えずに

目を閉じながら

子供たちの声を聞きながら

ゆっくりと

一筋の涙を

頬にたずさえていた。

そんな事は初めてであった。


これはきっと彼女のさいごの演説だ。

《皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり》


私は

祖母の手を取り

一緒に泣いた。


私をいつも大きくあたたかく包んでくれていた手は

いつのまにかしわしわになって小さく冷え切ってしまっていた。


そして

わかったよ。もう大丈夫。

私はもう大丈夫だから。

ありがとう。

私は

心の中で何度も何度もくりかえした。


私と祖母はそれが最期の別れとなった。



つづく。






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