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「うま」や「しか」じゃなく「とら」や「うま」

心に衝撃が走った。

『メロスは激怒した。』みたい始まりだが、この記事にはメロスも出てこないし、セリヌンティウスも出てこない。
読むたびにセリヌンティウスはいいやつだなと思うし、メロスはおかしなやつだなと個人的には思う。

ただの衝撃だ。

別に怒ってもいない。悲しくもない。


でも衝撃であったのは間違いない。


その証拠に、私はその衝撃を受けたことばをたびたび、心の中から引っ張り出してきては、じっくりとながめている。

ながめているが、得体がしれないのだ。

ながめればながめるほどわからなくなる。

でも、こいつは今来るべき時を選んでやってきた気がする。

私はそのやってきた何かについて、ここ何日かぐるぐると頭をまわして付き合ってみた。

そして結局、結論はでない。
でないながらも、ここに記してみようと思う。


その「あることば」を発したのは私の娘だった。


私たち家族はある場所でお正月を過ごしていた。

そこは人々が行列をなしている場所であったので、その日は待っている間に娘と話す時間がたくさんあった。

話題はほとんど他愛もない、くだらない内容が多く、娘が私の話したことばに対してお腹を抱えて笑いだす場面もあったくらいだった。

そんな穏やかな昼下がりだった。

そのことばが発せられたのは。


それは


「大体のトラウマは親から受けることが多い」


というものだった。

私はそれに対して

「それは『うま』とか『しか』とかじゃなくて『とら』と『うま』で合ってるのかな。」

と、かなりピントがずれている返事をした。

今思えば、衝撃があまりにも大きくて、ユーモアの方向性に逃げてしまったのかもしれない。

娘は「うん。そうトラウマ。」とだけ返した。

娘の表情は変わらなかった。

それはいつも言っている「お母さん、いってきます」ということばと同じくらいの温度で伝わってきた。

トラウマ...。

うまやしかじゃない。

とらやうま。

心的外傷(しんてきがいしょう、英語: psychological trauma、トラウマ)とは、外的内的要因による肉体的及び精神的な衝撃(外傷的出来事)を受けた事で、長い間それにとらわれてしまう状態で、また否定的な影響を持っていることを指す。

とらである。

今年の干支である。


とら。

とらうまにとらわれる。

私は今、このことばにとらわれすぎないように、離れている。
そして、このことばから離れすぎないように一定の距離をはかりながら、この事について考えている。

今、衝動的になってしまう気持ちを抑えている。早急に答えを、結論を出したくない。
そのまま私の中にゆっくりと置いておきたい。

耐えたい。待ちたい。

この年になると、何事も後からわかることの方が多い事に気づく。

ただ今回一つだけわかったことがある。


私は今まで親子関係について
自分と親の関係性しか考えていなかったのかもしれない。

おそろしいことに

頭ではわかっていたけれども

わかっていたつもりだったけれども

今までわかっていなかったのかもしれない。

そう。


私もまぎれもなく人の親なんだ。





つづく...かも?。




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