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豆と悪を煮つめる日曜日の夕方

日曜日の夕方のお供といえば、笑点からちびまる子ちゃん、そしてサザエさんという流れが私の幼少の頃はスタンダードだった。


祖父母の家のテレビはリビングと食卓に2つ存在していて、食卓を祖父母と囲みながら、キャベツと魚肉ソーセージのソース炒めとか、いちごというコリコリした貝の煮付けとかを美味しく頬張ったり、しゃこの煮付けの殻を祖母に丁寧にむいてらったりしながら、まるちゃんのキートン山田のつっこみに笑ったり、笑点の「こんぺいでーす!」と元気な姿に微笑んだりしていたのだ。

あのビニール素材のどこかウエットな感触のぺたぺたした床とか、食事の前に蠅帳がかかっている風景とか、テーブルの周りのやけに狭っ苦しいスペースの奥に祖母が鎮座している様子とか、祖父が揚げ物をしている時のわくわく感とか、思い出す映像はややカラーがどことなくくすんでいるが、今でも鮮明に覚えている。


フライパンに豆を入れながら、そんな事をふと思い出した。

豆はひき肉とトマト缶と一緒にふつふつと煮詰まっている。


突然だが私は豆が好きだ

一昨日の夕食はチリコンカンにした。

ミックスビーンズとか大豆とかひよこ豆の缶をいつも必ずストックしている。

そして大量に作ってちびちび食べるのがこの上なく好きだ。

夫は「今日はトルティーヤがやけにお店で目についたけど、そういう事だったんだね。買っておけばよかった。」と悔しい顔をした。

そして「あれでもいいかも?」とひらめいた顔をしながらこれを持ってきた。

この「チーズクラッカー」でも十分事は足りた。これに乗せてもそこそこ美味しかった。結局夫は一袋分のクラッカーをお酒と共にたいらげてしまった。

チリコンカンじゃなければひじきの煮物がいい。

もしくはグリーンカレーにひよこ豆を入れてもいい。

なんなら大豆と人参を切って煮るだけでもいいし

サラダにばっと豆をかけるだけでもいい。


少し脱線したが


豆を煮ながら私はある考えを煮詰めていた。


それは「」について。


以前私はnoteを始めた年にこんな記事を書いていた。

今読んでみても、基本的にはこの時の考えとほぼ変わらない。

私は自分の悪をなるべく「外在化」しないで「内在化」するように心がけてきたつもりではある。


けれども。


続けてきて思ったのは「時にはしんどくなる」という一つの事実だ。

そして、つらいとつい「外在化」してしまう自分にも気づいた。

だって相手がこうだったから….と、相手の中に悪を盲目的に作り上げてしまう。


己の悪を見つめ続ける作業は、身体的・精神的に余白や余裕があったり、土台がぐらぐらせずしっかりしている時でないと、たちまち奈落の底に落とされてしまうような恐怖感がある。

「内在化」「外在化」が度を越すと、スターウォーズのダークサイドに落ちてしまうアナキン・スカイウォーカーのように、暴力を行使する側へいとも簡単に引き摺り込まれてしまう。

私は以前の記事で「悪を出したり戻したり照らし合わせる」と書いた。

「なんで私は生き延びてしまったんだろう」とたまに問いかける。

「あの人じゃなくて逝くのは私でよかった」と思う事もある。

「私が生きているだけであの人に迷惑がかかる」とも思ったりする。

「あの人にあんな事言ってしまった自分最低」とも思う。

「自分の欲を優先して、ささやかな願いを踏みにじってしまった」と思う時もある。

取り出して千本ノックのようにぶつけていく。

壁打ちのテニスのように弾が暴力的に自分へはねかえってくる。

でも
「ああ!息子が学校で使う水泳帽を明日までに買わなくては?」とすぐに直近の用事を思い出し、自責の念は雲のようにふわっと消えて引っ込んでしまう。

急に差し込まれるゆるっとした課題。

日常ってこんなものだ。


映画やドラマのようにわかりやすく事が運んだりドラマチックな展開は見せない。

そしてこんな問いは
重たく、私にはずっと抱えきれない。


何より私は日常を生きていかなければならないのだ。

家族が私を待っている。


そう。戻る場所は「ホーム


過去記事で取り上げた奥田知志さんは「ハウスレス」と「ホームレス」の違いについて述べている。

「ホームレス」と「ハウスレス」はちがう
「このために」と思える自分の役割がないように感じたり、「この人のために」という他者がいなかったりする。いくら経済的な支援を行っても、人との絆、社会とのつながりが切れてしまっているために、生活を立て直すことが再び困難になってしまう事例が多くありました。
だからこそ抱樸は、「ホームレス(社会的孤立)」と「ハウスレス(経済的困窮)」の問題を分けて考えています。ハウスレスの人には「この人には何が必要か?」を考え、ホームレスの人には、「この人には誰が必要か?」を考えます。
NPO法人 抱樸のホームページより

大事なのはその人の帰る家だけではない。

帰るべき人がいること。

私にはあの祖父母とサザエさんを見ていた原風景がある。

あるいは、チリコンカンをチーズクラッカーで食べてくれる家族もいる。

家族という構成体だけではなく、今まで関わってきた笑顔が素敵な大切な人たちもいる。

そのようなホームを一人一人持つ事が、悪にひっぱられない一つの手段であるのかもしれない。


そして、願わくば
くだらないことを話せるようなあたたかい居場所を、孤独である人が身の回りだけでも持ち続ける事ができるように
私は私の仕事などを通じてささやかながらもコツコツと働きかけ続けていくこと。

前回の記事で私の手をつかんでひねったあの女性にも

「あなたは確かにここにいたよ」


と存在を見届けることができたら。


そのような事を大好きな豆を煮詰めながら

私は今日もああでもないこうでもないと

深い思考の海の底へ潜って

抗っている。


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