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「ことば」と「きくこと」

ことばのない世界。

想像したことがあるだろうか。

私は、今、当たり前のようにパソコンあるいはスマホを使用してここに文章を記しているが、実はある人たちにとっては、当たり前のことではなかったりする。

私たちは、ことばとことばを交わすことで、日々の意思疎通を行っている。

けれども、この世には、ことばを発することができなくなってしまう病気がいくつかある。

脳卒中、脳腫瘍等の影響で出現する高次脳機能障害の一つ。失語症。
あるいは進行性球麻痺や筋萎縮性側索硬化症、脊髄小脳変性症などによる小脳障害や、進行性筋ジストロフィによる構音障害。

ことばを脳内で組み立てることができなくなってしまう、あるいは舌や口唇、構音器官の麻痺が起きて発声を形づくることができなくなってしまい、ことばによるコミュニケーションの手段が絶たれる。

今回はそのうちの一つ。
認知症について少し考えてみる。

認知症というと、これを読んでくださっている方たちは「私たちにはまだまだ先の話のことだからね」と思う方もいるかもしれない。

しかしながら、認知症は年齢に関係なく訪れることもまれにはある。

若年生認知症という単語を、どこかで耳にしたことがあるだろうか。

日本医療研究開発機構(AMED)の調査(2017~2019年度)によると、2018年時点の全国の若年性認知症患者数は3.57万人で、若年性認知症有病率は18歳~64歳人口10万人当たり50.9人と推計されています。

生命保険文化センターのホームページより

若年生認知症とは、65歳未満で発症する認知症の総称だ。

特に多いのが「アルツハイマー型」の認知症。

一つ特徴的なのが、女性より男性の方が多いこと。(高齢者は女性の方が多い)
そしていわゆる「物忘れ」から、気づくことが多い。

私は、若年生アルツハイマー型認知症を発病した丹野さんのことを過去に記事で書いたことがある。

彼は、働きざかりの39歳で発症している。

もう1人。
有名な方がいる。
クリスティーン・ボーデン。
彼女は「私は誰になっていくの?」という本を書いている。

 著者のクリスティーン・ボーデンはオーストラリア在住。1995年5月、46歳という若さで脳に萎縮が見られるアルツハイマー型認知症と診断された彼女の体験記である本書は、「アルツハイマー病の本人が書いた本」として大きな反響を呼び、クリスティーンのその後の活動とともにメディアでも大きく取り上げられている。

彼女の本を若い頃に読んだ。

彼女はことばがすらすらと出てこないことについて以下のようにあらわしている。

 私の「どろどろとした糖蜜のような脳」の内部で、言葉がごちゃまぜになっている感じときたら、まるで、頭の中に言葉の本棚があって、話題等によって適切な場所にすべてきちんと整理されていたのに、床に押し倒されて、ごちゃまぜのひとかたまりになってしまったようで、それを分類し直して、その中から自分の言おうとする言葉をさがし出そうとしているようなものだった。

「私は誰になっていくの?」より

 ある日、目が覚めて、話そうとすると、どうしたことか頭の中の文から言葉がー跡形もなくー消えてしまっている、とちょっと想像してみてほしい。言おうとしても、全体の意味について感じはつかんでいるのに、大事な構成部分がぬけている。ゆっくりと口が待っていると、ぼんやりと霞のかかったような脳は悪戦苦闘しながら、時にはふさわしい言葉(あるいは、それにかなり近いもの)を見いだし、正しいかどうかを考えながら、注意深くゆっくりとそれを言う。
 もし、集中しなければ、知ってのとおり、何かばかなことが起きるのだ。

同著より

私は、職業柄、日々認知症の方と接する機会が多い。

若年生アルツハイマー病の方も含めた、認知症の方や、上であげたような失語症の方と、会話をすることは、私にとっての日々の生活の中ではめずらしいことではない。

彼ら彼女らは、ことばが脱落して、滑り落ちてしまって、うまくそれらをつかむことができない。あるいは、もっと他に例えるならば、脳の中のことばがしまってあるタンスの引き出しがガタついてしまって、取り出すことができないような状態でもある。

会話は非常にたどたどしく、ことばそのものが形をなしていない。ことばの前の段階。認知症の症状が進んでしまうと、それは、どこか異国のことばのようでもあり、赤ちゃんの喃語のようでもあり、動物の鳴き声にも聞こえる。


(そういえば、以前、ある1つの単語しか話せなくなってしまった方のお話を書いてみたことがある)

私はその状態になったとしても「コミュニケーションははかれるのではないか」と心密かに思っている。私はそのような世界があることを願っている人間の1人である。


「きく」と「はなす」はことばや単語がなくとも、できる。

ヒントは探せばたくさんあるような気もしている。

その一つが、西村佳哲さんのインタビューである。

 目が見える人にとって「きく」は結構「みる」と同時にあると思うんです。話す人は仕草や表情といった「話しぶり」も含めて、内容以上のことをしゃべっていますが、それは見ていないとわからないですよね。だから「きく」というのは同時に「みる」ことだし、ひいて言えば「感受する」ということですよね。

しゃべる側は、声帯を震わせて発声して、胸も動いていて、空気を振動させて、きく側の鼓膜が振動するけど、鼓膜以外のところにも何か伝わっていて。きいている側も、話の内容だけじゃなくて、声の響きも体と体という形で受け取っている。空間を共有しているわけです。

そうやって考えると、「きく」っていうのは同時に「みる」っていうことだし、響きを感じるということだし、ときには、相手が話していたことを自分の口の中で繰り返してみて「利く」ような味わい方をすることもあるわけですよね。

だから「きく」には全体性があると思っています。

soarのインタビューより

「きく」ということは、相手が話すことを可能にするということ。みんな、話の内容を知的に理解することが「ちゃんときく」ことだと思っていると思うんだけど、そうじゃない。その内容の周りに仕草とか表情とか色々なものがあって、きき方によってその表れ方も変わってくる。

西村さんのインタビューの教室というセッションに参加させて頂いた時に

「身体感覚の報告」

のお話をしてくださった。

ことばになる前の体の感覚。

たとえば

・地に足がついていない
・歯が浮く
・二枚舌
・顔が立つ
・耳が痛い
・頬がゆるむ
・喉から手が出る
などなど。

体に関する慣用句は世の中にたくさんある。
脳の中でことばをカタチ作る前に、人間は感覚を通じて体で何かを感じているのだ。

認知症や失語症の方とコミュニケーションを取っている時に、私は相手のその身体感覚のようなものをキャッチしたいと思っている。

ことばに頼らないもの。ことばが不確かだからこそ、ことばではないものに、その人の思っている萌芽のようなものがあって、そこにヒントが隠されているのかもしれない。

パーソン・センタード・ケア

という、認知症を有する人に対する一つの考え方がある。認知症をもつ人を一人の「人」として尊重し、その人の立場に立って考え、ケアを行おうとするものだ。

インタビューの教室で書いた走り書き

そもそも話を聞いてくれる人がいないと、人はもしかして話し出さないのかもしれない。話を聞くのは、他者でもあり自分でもある。

「きく」ということは、相手が話すことを可能にするということ。

そしてことばが不確かであるというのは、何も認知症を有する方たちの話だけでもないのかもしれない。

私だって、私の発することばは、いつだって不確かで曖昧さを持っていることを、我が身のままならなさ、よるべなさを感じた時に、特に自覚する時がある。


そのように考えてみると、私は逆に、ことばを失ってしまった人たちから学ぶことがあるのだと思う。

ことばとことばでないもの。

両方を備えて、きく、という営みを繰り返しながら、私たちは、なんとか自分と他者と、このどうにもならない不思議な世界を生きていこうとしているのかもしれない。



このお話が、ある方に届きますように。


それでは、また。

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