「ことば」と「きくこと」
ことばのない世界。
想像したことがあるだろうか。
私は、今、当たり前のようにパソコンあるいはスマホを使用してここに文章を記しているが、実はある人たちにとっては、当たり前のことではなかったりする。
私たちは、ことばとことばを交わすことで、日々の意思疎通を行っている。
けれども、この世には、ことばを発することができなくなってしまう病気がいくつかある。
脳卒中、脳腫瘍等の影響で出現する高次脳機能障害の一つ。失語症。
あるいは進行性球麻痺や筋萎縮性側索硬化症、脊髄小脳変性症などによる小脳障害や、進行性筋ジストロフィによる構音障害。
ことばを脳内で組み立てることができなくなってしまう、あるいは舌や口唇、構音器官の麻痺が起きて発声を形づくることができなくなってしまい、ことばによるコミュニケーションの手段が絶たれる。
今回はそのうちの一つ。
認知症について少し考えてみる。
認知症というと、これを読んでくださっている方たちは「私たちにはまだまだ先の話のことだからね」と思う方もいるかもしれない。
しかしながら、認知症は年齢に関係なく訪れることもまれにはある。
若年生認知症という単語を、どこかで耳にしたことがあるだろうか。
若年生認知症とは、65歳未満で発症する認知症の総称だ。
特に多いのが「アルツハイマー型」の認知症。
一つ特徴的なのが、女性より男性の方が多いこと。(高齢者は女性の方が多い)
そしていわゆる「物忘れ」から、気づくことが多い。
私は、若年生アルツハイマー型認知症を発病した丹野さんのことを過去に記事で書いたことがある。
彼は、働きざかりの39歳で発症している。
もう1人。
有名な方がいる。
クリスティーン・ボーデン。
彼女は「私は誰になっていくの?」という本を書いている。
彼女の本を若い頃に読んだ。
彼女はことばがすらすらと出てこないことについて以下のようにあらわしている。
私は、職業柄、日々認知症の方と接する機会が多い。
若年生アルツハイマー病の方も含めた、認知症の方や、上であげたような失語症の方と、会話をすることは、私にとっての日々の生活の中ではめずらしいことではない。
彼ら彼女らは、ことばが脱落して、滑り落ちてしまって、うまくそれらをつかむことができない。あるいは、もっと他に例えるならば、脳の中のことばがしまってあるタンスの引き出しがガタついてしまって、取り出すことができないような状態でもある。
会話は非常にたどたどしく、ことばそのものが形をなしていない。ことばの前の段階。認知症の症状が進んでしまうと、それは、どこか異国のことばのようでもあり、赤ちゃんの喃語のようでもあり、動物の鳴き声にも聞こえる。
(そういえば、以前、ある1つの単語しか話せなくなってしまった方のお話を書いてみたことがある)
私はその状態になったとしても「コミュニケーションははかれるのではないか」と心密かに思っている。私はそのような世界があることを願っている人間の1人である。
「きく」と「はなす」はことばや単語がなくとも、できる。
ヒントは探せばたくさんあるような気もしている。
その一つが、西村佳哲さんのインタビューである。
西村さんのインタビューの教室というセッションに参加させて頂いた時に
「身体感覚の報告」
のお話をしてくださった。
ことばになる前の体の感覚。
たとえば
・地に足がついていない
・歯が浮く
・二枚舌
・顔が立つ
・耳が痛い
・頬がゆるむ
・喉から手が出る
などなど。
体に関する慣用句は世の中にたくさんある。
脳の中でことばをカタチ作る前に、人間は感覚を通じて体で何かを感じているのだ。
認知症や失語症の方とコミュニケーションを取っている時に、私は相手のその身体感覚のようなものをキャッチしたいと思っている。
ことばに頼らないもの。ことばが不確かだからこそ、ことばではないものに、その人の思っている萌芽のようなものがあって、そこにヒントが隠されているのかもしれない。
という、認知症を有する人に対する一つの考え方がある。認知症をもつ人を一人の「人」として尊重し、その人の立場に立って考え、ケアを行おうとするものだ。
そもそも話を聞いてくれる人がいないと、人はもしかして話し出さないのかもしれない。話を聞くのは、他者でもあり自分でもある。
そしてことばが不確かであるというのは、何も認知症を有する方たちの話だけでもないのかもしれない。
私だって、私の発することばは、いつだって不確かで曖昧さを持っていることを、我が身のままならなさ、よるべなさを感じた時に、特に自覚する時がある。
そのように考えてみると、私は逆に、ことばを失ってしまった人たちから学ぶことがあるのだと思う。
ことばとことばでないもの。
両方を備えて、きく、という営みを繰り返しながら、私たちは、なんとか自分と他者と、このどうにもならない不思議な世界を生きていこうとしているのかもしれない。
このお話が、ある方に届きますように。
それでは、また。
サポートは読んでくれただけで充分です。あなたの資源はぜひ他のことにお使い下さい。それでもいただけるのであれば、私も他の方に渡していきたいです。