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自分の責務を全うする

子どもにせがまれて、話題の鬼滅の刃の映画を観た。

平日のレイトショーだから
「そんなに席も混んでいないだろう」と
私は甘く見ていた。


結局、前方から2列目の席しか空いておらず、終始首を挙げっぱなしで頑張って鑑賞した。


こんなことは「アナと雪の女王」以来だなと、久しぶりの感触に記憶がゆっくりと浮かんできた。


話は変わって、映画の中で煉獄さんというキャラクターがいる。


彼は物語が佳境に入った時にあるセリフを喋る。

「俺は俺の責務を全うする!ここにいる者は誰も死なせない!」


「責務」は責任と義務。また、果たさなければならない務め。

彼は幼い頃、病弱で死が近い母親に「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。」と言われて、そのことばを力にしながら生きてきた。

父親に努力を認めてもらえなかった彼の生きる源は、母親のそのことばであることが伝わってくる良いシーンである。



果たさなければならない務めとは誰にでもあるのだろうか。

私は個人的にはそれはあってもいいし、なくてもいいと思っている。

なぜかというと、務めが務められない人もいるからだ。
体が弱ってしまった植物人間のような状態の人は何かを務められるだろうか?

務められないことで存在価値がないかというとそういう訳ではないと思う。

そして果たさなければならない務めの方向性を間違えると、人を傷つけても構わないといった発想に進んでしまう。

正義を振りかざすSNSでのバッシングや、守りたい気持ちがエスカレートしたストーカー犯罪や、最終的には戦争もその部類だと思う。


現実世界では迷惑極まりないが、映画の世界では違って、それらの使命を持ったキャラクターというものはとても魅力的に映る。

ある特定のダークヒーローや悪役に一種の魅力を感じてしまうのは、彼ら彼女らの果たさなければならない思いのエネルギーの大きさ、熱さ、狂気、エモーションにどうしようもなく私たちが惹かれてしまうからだ。


アンパンマンの歌で

なんために生まれて
なにをして生きるのか
こたえられないなんて
そんなのはいやだ!

という歌詞がある。
私も答えられないのはいやだ!と思っていたけど、今は果たさなければならない務めがなくてもいいと思っているし、務めとは「生きること」で十分だなと思っている。

そうだ うれしいんだ
いきる よろこび
たとえ 胸の傷がいたんでも

「生きること」は喜びなんだなと思う。
その人なりの喜びを享受するために、傷を抱えながら生きていく。


煉獄さんの最期の笑顔に照らされて、横で泣いている子どもの涙の存在を感じながら、平日のレイトショーでそんなことを私はぼんやりと考えていた。

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