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巣穴のアリをつぶさぬように
まだ私が子どもだったころ。
夏休みになると、近所の公園のラジオ体操に毎朝参加していた。
ラジオ体操は地区の青年会が交代で関わっており、朝の6時半近くになると近所の人たちがのそのそと出向き、自然と公園に集まってくる。
ある人はスエット上下で、ある人は寝癖をつけたまま、ある人はあくびをしながら「今起きてそのままやってきましたよ」という出で立ちの寝起き集団は、静かに狭い公園に集まる。
誰が声をかけるでもなく、集団は静かに待っている。定刻になると、ラジオからはつらつとしたアナウンサーの声が聞こえてくる。
「おはようございます。今日もNHK朝のラジオ体操の時間がやってまいりました。それでは、みなさん今日も1日頑張りましょう。」
私は自分で言うのもおかしいが、子どもの頃は比較的素直でいい子であったので、スタンプほしさに律儀に毎日ラジオ体操に参加した。
朝起きて公園に行くことははっきりいって面倒くさかった。しかし、体操が終わると、そんな面倒くさい気持ちも忘れてしまい、体も心も目覚めてすっきりとした気持ちになっていた。
体操が終わると、青年会の人たちはたまにおやつをくれた。あめ玉や、アイス、そして水飴。この日は水飴をくれた。
水飴は無色透明で、割り箸を切った短い棒の先につけられている。
私は公園から家までの帰り道を水飴の棒をぐるぐるとまわしながら、ゆっくりと歩いて帰った。
さあ、今日は何をしようかな・・なんて考えながら玄関につくと、大きなアリの巣が目に入った。
アリはせかせかと列をなして、えさを運んでいる。
私は「水飴をあげたら喜ぶかな」とぼんやりと思いながら、おもむろに水飴をアリの巣に近づける。
水飴はトロリと地面に付着し、そのまま、形を変えて広がっていく。
広がった水飴はアリの巣までゆっくりと広がった。
アリは水飴にのまれて、身動きがとれなくなってしまった。
バタバタと動くアリは次第に力なく動きを止めてしまう。
アリたちは水飴に包まれて息絶えてしまった。
私は今でもその光景をはっきりと思い出せる。
それは誰かを守るために犯罪を犯してしまったかのような
正義のための戦争を起こしたかのような
圧倒的に力の差があることを目の当たりにしたような
子ども心にもとても複雑な気分になった。
自分が善意でしたことが思わぬ結果を生んでしまった。
こわい。けれども目をそらせない。
ただ、じっとしゃがんで、アリと水飴と巣穴を見つめていた。
大人になって、たまに思い出すことがある。
あの暑い日差しの2階建てのおじいちゃんの家の前で
コンクリートと家の間の土に生えている草陰にぽっかりと空いている
アリの巣穴をしゃがんで見つめている自分を
自分が同じようなことをしていないかを立ち止まって確かめることがある。
自分がこわくなる。
じっとりと汗ばむ。
力を作用させること。
例え善意であったとしても、私は誰かの巣穴をつぶさぬように
慎重にしなければならないのだ。
ふれるかふれないか。
距離をはかりながら、様子を観察しながら。
接する時に何が起こるのか。
こわくても見届けなければいけない。
この大事なことを忘れないように
いつでもあの夏のアリの巣穴を心のどこかに置いておきたいと思う。
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