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夏に近づいたり遠くなったりするもの

冬が好きだ。

冬の凛とした空気。

首元をほわほわと包み込むあたたかい毛糸のマフラー。

両手の中のすっぽりおさまったココア缶。

重ね着して少し動きづらいコート。

吐息の白さ。

ざくっざくっという音のする霜が降りている草むら。

澄んだ空気の中で突如あらわれる
海の向こうの雄大な富士。

私は冬が好きなんだ。

心が落ち着いてすごせる気がしている。

冬眠しているくまのように、動きはもしかして停滞しているのかもしれないが、もしかして本来の自分に近いペースで過ごせるのかもしれない。


また今年も夏がやって来た。


蝉の声が嫌でもそれを感じさせる。


夏はもしかして苦手なのかもしれない。


なぜだか急かされているような気持ちにもなる。

蝉のように生き急いでいるつもりもない。


学生の頃「この夏で何をするか」「どこに行くか」「恋をみつけるか」「どんな成長をするか」みたいな、世間にあふれているものからさりげなく背を向けていたような気がする。

青春.....みたいなものは、私からかなり離れたところに存在していた。


まるで儀式のようにそこを通過しないといけない感じが嫌だなと思った。
テレビや雑誌はこの夏に何と出会うのか。充実させるのかという話題で持ちきりだ。

私は畳の上で寝転がって左右にゆっくりと首をふっている扇風機をお行儀悪く足でかまいながら、ガリガリくんをかじっていた。

扇風機は進行方向を私の足に邪魔されて困っている様に見えた。

困っているのは私もだよ、と思う。

この困り感は必要なのかな....とも問う。


夏が苦手なのはまだ理由がある。


夏になると遠くに行ったものを思い出してしまう。


この世ではもう会えない人たちがいる。


私はこのようなご時世になるまで「オーガスタキャンプ」という、山崎まさよしさんが所属している事務所の夏のライブに足を運ぶことが多かった。

独身の頃は1人で。

結婚してからは夫と。

スタジアムや横浜の赤レンガ倉庫前、昭和記念公園など、思い出はいろいろとある。

その年は、初めて自分の子供を連れてオーガスタキャンプに参加する事にしていた。

娘はまだ2歳になったばかりだ。

子連れで行きたい理由としては、うちの子は割と音楽を楽しむ性格だったこと、子供が参加できるスペースがあることが一番の理由であった。その年はスキマスイッチがポケモンの映画かなんかの主題歌を歌っていたこともあり、企業とタイアップして、そのようなスペースがあることが一つの特色となっていた。

ありがとう、スキマスイッチ!と感謝しながら私はチケットを購入した。

とはいっても、子連れでライブに参加するのはほぼ初めてであったので(子供と楽しむクラシックコンサートには行ったことがあったけど)当日まで私は少し不安であった。また、ライブに申し込んだ時点ではわからなかったが、その後、私のお腹には第2子がいることが判明していた。

当日参加してみて、子供スペースにたどり着いた時に、私は安堵した。

そのスペースは芝生が広々と続いていて、なだらかな丘のようになっていた。観客席に比べるとステージまでは遠いが、モニターにアーティストの様子は映るし、音もちゃんと聞こえてくる。

そして、外遊びのおもちゃが置かれていて、子供があきないような工夫がほどこされていた。そのスペースを利用している人たちも少なく、芝生の上で大の字で寝ても、余裕のある場所だった。

うん。ここなら大丈夫だ。お腹の子にも負担をかけずに過ごせる。

娘と遊びながら、冷たいジュースで体を冷やしながら味わう、好きなアーティストの曲を聴ける贅沢。私は久しぶりのライブ参加に心躍っていた。娘もたまに音楽を聴いて楽しんでいた。夫は屋外でビールを飲んで陽気な様子であった。

昼下がりから始まったライブは、徐々に夕方にさしかかっており、気温も心地よいものになっていた。

娘は遊び疲れて、芝生の上で昼寝をはじめた。その横で夫もうたた寝をしていた。


私は幸せを感じていた。
この風景を家族で過ごせた事。忘れない様にしよう。胸に刻んでおこうと目を閉じた。

涼しい風が私の頬をなでた。

スガシカオさんは私の好きな「黄金の月」を歌っていた。



そんなライブから何週間か経ったあと。

私は婦人科の定期検診でこの前まで確認できていたおなかの子の心拍が確認できないことを医師に告げられた。

医師は静かに現状についての説明をしていた。おなかの中をきれいにするための手術をする予定を尋ねられている時に、私は思い浮かべていた。


あの時、あなたはまだいたのかな。

あのライブで、家族で、過ごした夏の一日。

あの夏の日差しを感じた日。

夕方の斜陽に包まれて聞いた元ちとせさんの「死んだ女の子」のせまるような歌声。

お月様の下で聞いた「星のかけらをさがしにいこう」の懐かしさ、安定感、アーティスト同士のなごやかな空気。

4人で過ごした最後の思い出。

私は出会えなかったその子に「葉月」という名前を勝手につけて、毎年1人静かに偲ぶことにした。




夏になると私は少し心がかき乱されてしまう。

おなかの中で育まれなかった生命が

私を置いて逝ってしまった人たちが

私に近づいたり、遠ざかったりする。

もう2度と出会えない

ふれられないものたち。

さわれそうでさわれないものたち。


もういちど、と思うこともある。

思った気持ちをそのまま書いた。

我ながら暗いな、と思う。


でも、ここに書いたとおり、これらは私を生かしてくれている存在で、力を与えてくれているものだと思う。


「たくさんの人に生かされている」

ということが

ことばとしては理解できるが

実感として、私はまだ感じられていないような気がする。

くりかえし自分に問う。

経験も重ねていくしかない。


今日は6日。

今日はこの日に亡くなったたくさんの人たちの事を想う。

昨年も読んだこの文章を、もう一度今朝読み返した。

夏になると、近づいたり、遠くなったりするものがある。

私は自分が生きている限り、そのものを忘れないようにしたい、と願う。





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