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くま読書 岐路の前にいる君たちに

久しぶりの読書紹介シリーズです。

この本をつい最近ある方におススメしたのですが、そこで「責任」と「リスポンシビリティ」についてのお話になりましたので、急遽取り上げさせて頂きました。

哲学者・鷲田清一が、大阪大学、京都市立芸術大学の入学・卒業式で、新しい世界に旅立つ若者へ贈った、8年分の人生哲学。(amazon紹介文より)

1.本との出会い

この本は哲学者である鷲田清一さんという方が、紹介文にもある通り、入学式と卒業式で生徒さんたちに送った式辞の文章をそのまま載せている内容となっています。

なんで私がこの本を買ったのかはっきりと覚えていないのですが、もう1年半以上前に(感染症が中国で流行し始めたころかな....)私の好きな代官山蔦屋書店をいつもの通りぶらぶらふらふらしている時に目がとまって、購入したんだと思います。鷲田先生の本はこれ以外にもいくつか文庫本などで読ませて頂いていたので「おもしろそうだな」と思って買ったのでした。

帰ってきて読んでみて、衝撃です。

ズガーンと頭を叩かれたような衝撃です。

シティハンターの冴羽獠が香の100トンハンマーを打ち付けられた位の衝撃です。(←再放送のアニメで見てました。)

「これを人生の教科書にしよう」

私はそれ以後、悩んだ時には何回もこの本を読みました。

何回も助けられました。

読むたびに違う文章がひっかかります。

私の中ではそういう本です。

2.責任とリスポンシビリティ

ここからは本からの文章を引用しながら内容をご紹介させて下さい。

日本語の「責任」は
英語にすると「responsibility(リスポンシビリティ)」になります。

この2つは同じことばなのですが

各国でのこのことばに対する捉え方が違うこと、「リスポンシビリティ」には「責任」ということばからは感じられない独特の含意があることを、鷲田先生はこの章で話されています。

米国のオバマ前大統領が就任演説の最後のところで「新しい責任の時代」というスローガンを口にしたそうです。

「米国民一人ひとりが自身と自国、世界に義務を負うことを認識し、その義務をいやいや引き受けるのではなく喜んで引き受ける機会をとらえること」

このことばは1961年のジョン・F・ケネディ大統領の就任演説「祖国があなたに何をしてくれるかを問うてはなりません。あなたが祖国のために何ができるかと問おうではありませんか」の内容を踏まえているようです。

自分が何を求められているか。

「リスポンシビリティ」は「リスポンドできること」

つまり

他者からの求め、訴えに応じる用意がある

という意味だそうです。

そしてさらに遡って「リスポンド」はラテン語の

「re-spondere」「約束しかえす
ということばに由来しているそうです。

欧米の人たちは伝統的に(ひと)としての「責任」を、他者からの呼びかけ、促しに応えるという視点からとらえてきたのです。この他者は彼らにとって神でもありうる。だから職業のことを、とくに使命や天職の意味を込めてコーリングと呼びもしてきたのです。まさに神からの呼び出しに応じるということです。

日本語の「責任」にはそのような含意はありません。

「責任」と言えば、国家の一員としての責任、企業の一員としての責任というふうに、組織を構成する一員として果たさねばならないことがらを思い浮かべます。それは匿名の役柄における責任であって、まぎれもなくこのわたしがいまだれかから呼びかけられているという含みはそこにはありません。(本著P33~34より)

3.責任を負いたくない人たち

最近、どのような出来事も「責任」ということばがつきまとっているような気がしませんか?

大きいところでは社会問題、小さいところでは会社内や学校、家族など。

誰が責任を取るんだということがクローズアップされがちなような気がします。そしてどのように取るのか。これも注目されがちです。

中には「自業自得」みたいな意見も出てきます。そんな事した自分が悪いんじゃん。今まで努力しないお前がいけない。失言したから責任取れ。知らなかったあんたが悪いのよ。そんな身体だからいけないのよ。貧乏だからだめ。人種が違うから。性別が違うから.....。

これって本当にその人が責任をまるごとすべて負わなければいけないんでしょうか。

私はよくわからないのです。

責任って。

攻撃している人は何で他人事になってしまうんだろう。

正義感?自分が正しいと思うからしているのでしょうけど...。

今、攻撃している相手は明日の自分かもしれない。

明日の恋人や友人や家族が同じ状況になるかもしれない。

その人にも家族がいて友人がいてただ穏やかに生活を営んでいきたいだけかもしれません。

「責任」は重たい。

それよりも「リスポンシビリティ」の方がちょうどいいのかもしれない。

一つの課題に対して応じられる心持ちを、みんなが少しずつ持てること。そんな世の中になれたら...。

4.目の前の世界に自分ができること


大事なのは自分と異なる他者たちの、声にならぬ叫びや訴えにリスポンドできること。
他者の消えそうな声を聴く耳をもつこと、その小さな声に「Can I help you?」と応じることができること

と鷲田先生は著書で書かれています。


難しいことは考えなくていいと私は思うのです。

差別や障害者、いじめ、ハラスメント、全ての知識をたくさん学ぶ必要はありません。

法律や規則、経験や知識をたくさん有する必要も本来はありません。

たくさん有さなくていけないのは、自分の身を守るためです。

でも、本来はそんなものもなくてもいいと思いたい。


自分の目の前の人が困っていたら、助けること。

相手の立場を想像すること。

世界に対して呼応すること。

たったそれだけでいいと思うのです。

子どもだってできます。

一人一人がリスポンドできるように。

一人の取り組みが波紋のように広がることを私は願っています。

ひとまず、本日はここまでにしたいと思います。

機会がありましたらこの本をもとに今度は「義務」についても考えたいなと思っています。また、よろしくお願いします。

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