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みんなと生きる

人と生きるって難しい。

他者と生きるって難しい。

友達とつき合うのって難しい。

恋人とわかりあうのって難しい。

夫婦で過ごしていくって難しい。


私が一番難しいと感じるのは「親子」だ。

おやこってすごく難しい。


カウンセリングの現場では、トラウマ(こころの傷)の原因となった過去の出来事をさかのぼったうえで、「赦すこと」を求められたりするそうだ。自分を虐待した親を赦す。自分をいじめた同級生を赦す。自分を助けてくれなかった誰かを赦す。
でもそれは無理な相談だと、ぼくは思う。
もう二度と会わない誰か、たとえば幼稚園時代のいじめっ子くらい遠い存在を「赦すこと」だったら、できるだろう。でも、親子関係の場合、どんなに本人が赦したつもりになっても、その後も関係が続いていく。なにも変わらない親がそこにいて、その人の前では子どもになってしまう自分もそこにいて、虐待であれ、依存であれ、支配構造はそのまま続いていくのだ。たとえ親が他界したとしても、見えない支配は消えないだろう。(幡野広志著「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。」より)

だからぼくは、切るしかないと思っている。(以下同じ本より抜粋)

なんらかの生きづらさを感じている人たちは、親との関係に苦しんでいる。その一方で、彼らのほとんどは、ちゃんとした「反抗期」を経験していない。親が怖くて反抗できなかったのではなく、親を悲しませたくなかったり、反対することで家庭内のバランスを崩したくなかったり、わざわざ反抗するのも面倒だからという理由で、「いい子」を演じていた人がほとんどだった。
そんな彼らに共通するのは、絶望だ。「親が自分のことをわかってくれるなんて、あるはずがない」という絶望だ。

ぼくは親子関係を「永遠に逃げられないもの」だとする考えは、子どもにとっても親にとっても不幸をもたらすだけだと思っている。親子の愛情を否定するわけではないし、ずっと仲がよいに超したことはない。できればぼくもそうありたい。ただ、NASAがそうしているように、「血のつながりよりも大事なものがある」と考えないと、親や子どもは自立(親離れと子離れ)の機会を奪われたままだ。

そういう両親のもとに育ったからこそ、「自分が親になるときには、『子どもの頃ほしかった親』になろう」と思えた。それこそが自分にできる「家族」の組みなおしだと思えた。

以前にも書いたが、幡野さんの本を読んで、私の背中に背負っていた「何か」が下りた。それは勝手に背負っていたのかもしれないが、私にとっては確かに重たいものだった。

でも、私は幡野さんではないので「切るしかないと思っている」というように、ばっさり関係を切ってしまうことはできないと思う。幡野さんは好きだが幡野さんの思いに100%共感はしていない。というかできない。だって違う人間だから。


高齢者の施設で働いていると様々なご家族にも出会う。
みんな絵に描いたようないい家族ばかりではない。

「姨捨山」
残念ながらそういうことばが浮かんでしまうような家族もたくさんいる。

「あそこの子どもは冷たいよね。もう少しお母さんに(あるいはお父さんに)やさしくしてあげればいいのに」という職員がいて私は「そうだよな」と一瞬同調しかけて、「いや待てよ、そうでもないかもしれない」と思い踏みとどまる。

だって、その家族の歴史があって、コミュニティのあり方があって、今までやり取りの積み重ねがあって、何十年と蓄積されたものを見ていないのに、その人の一瞬のかけらしか見ていない私に何が言えるだろう?

もしかしてその人の子どもは親にさんざん傷つけられた過去があったら?受け止めてもらえなかった想いがあったら?一見冷たく見えるその対応は、その子どもさんが精一杯ひねり出した努力の末の関わり方だったら?

私は考える。
このような親子はお互いに悲しみを背負って傷つけ合っている。

少しでも。

少しでもつらいなら、私たちに委ねてほしい。
所詮他人の私たちは、時間制限付きでやさしくできる。話も聞ける。受け止められる。家族じゃないからできることがある。

離れた時間で自分を癒して、自分なりに親に向き合える時だけ向き合って。向き合うのが無理な時は、程良い距離に離れればいい。近くに来れそうであれば行ったり来たりを繰り返してもいい。



花の種。

種だけでは花は咲かない。

種は土に出会って変化する。

しかし相性の良い土壌に出会わないと芽はでないし、花開かない。

私はたくさんのものに種をまく。

自分の愛情を巻き続ける。

種をまくのは簡単だが、土が受け入れてくれないこともある。

でも、それはそれなのだ。


土に落ちて土と出会い、水を得て、日に当たることで、花開く。

みつばちが花粉を運んで、受粉し、実を結ぶ。

たくさんのものに出会って花は寿命を迎える。

種を残して次の時代につながる。

たくさんの化学変化があること、それが「みんなと生きること」なのかなと思う。

たとえ芽が出なくても、それが例え血が近しいものでもそれはそれなのかもしれない。

でもその頑張って落とした種は決して意味のないものではないと思う。

そう私は思いたい。



skyfishさんへのアンサー記事です。(「答え」というより「応答している」イメージです)





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