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「障害者」ということばのあれこれ

福祉の関連職種の方なら「障害者」の表記を「障がい」と書く人にあたったことは、今までで1度くらいあると思う。

私もある。

でも障害者と書いている。今のところはどちらでもいいのかなと思っている。

理由としては、ちょっと古いけどこの記事を読んでほしい。

ところで最近、テレビや新聞などで「障がい者」と表記されるのを目にしますね。「害」という字を使うのは、障害のある方を傷つけるのではという考えからなのですが、NHKでは明確な理由で「害」を使い続けています。それは、「障害」はその人自身ではなく、社会の側にある。障害者=社会にある障害と向き合っている人たち、と捉えているからなんですね。

わたしもそう思っていた。その人たちが「害」ではない。環境に「害」がある。

それは、乗り越えられない段差であったり、使いにくいトイレであったり、世間からのまなざしであったり、様々である。

浅生鴨さんが、以前交通事故にあった時のことについてnoteで書かれた記事がある。病院では余儀なく車椅子の生活を送っていたことが描かれている。

文字通り障害物はそこにあって、多くの人はその障害物を潜ったり跨いだり迂回したりして、あるいはぐっと我慢しながら越えていくところ、様々な理由からそれを越えられない人たちがいて、僕たちはそういう人たちのことを障害者と呼んでいる。けれども実際の彼らは、多くの障害物に迷惑しているだけだ。障害のある者ではなく世の中に溢れる障害に困っている者、被障害者なのだ。障害物を取り除けば誰もがもっと楽に進めるのにそうしないのは、あっても困らないと思う人たちが、自分は我慢できるという人たちが、あるいはそこに障害物があることに気づかない人たちがものごとの基準を決めているからなのだろう。

被障害者ってことばが、このどうしようもない状態をすごく上手く言い表していて私は個人的に好きである。


例えば

私の前に3mの壁が現れたとする。それをどうしても乗り越えなければならないとする。

そしたら私も障害者だ。

左利きの人は右利きの人の生活様式で作られたいろいろな物に不自由を感じると思う。

左利きの人は軽度の障害者だ。

人間誰しも簡単に障害者になりうる。いや、もうなっているかもしれない。

だからこそ、声にならない声を聞く事が大事になってくる。

どんなに小さい声でも、拾い上げて考えられる社会になってほしい。

みんながみんな使いやすいデザインというのはないと思う。それは点字ブロックが良い例だ。点字ブロックは視覚障害者にはやさしいが、車椅子使用者にはやさしくない。だからこそ、一方向の意見だけを聞くのではなく多方向からの意見を元にお互いに対話をしていくことが、地域コミュニティで重要なポイントになる。

「これはじぶんだったかもしれない」というのが、はじまりの第1歩だと思う。

そして、余裕のある人は「じぶんだったらどうしてほしいか」を考えられると、次の行動に移せる。

何より、たくさんのやさしい視点が増えることで、障害者の心のバリアが少なくなっていくかもしれない。

心のバリアは人によって感じる基準が全く違うと思う。同じ事をされて不快な人と、あまり気にしない人と、嬉しい人と多種多様な世界だ。

たくさんの基準に触れることで、考え方が独りよがりにならないし、自分の基準がさらに明確になっていく経験を積み重ねていけると思う。

私が個人的に行なっているのは、自分の子どもへの教育と利用者さん自身の日々のバリア=障害体験を聞く事である。

そして小さい夢ではあるが、ゆくゆくは地域のバリアフリーマップを作成することが目標なのだ。できることから取り組んでいきたいと思う。

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