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ひとりひとりのものがたり

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仕事での出会い、出会ってしまった人たちの物語の断片を書き綴ったもの。高齢者のナラティブ。
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#作業療法士

喫茶ブラジルと青いノート

私は20cm程度の茶色の紙袋を持って、作業テーブルに向かった。 丸椅子に腰かけて、隣の車椅子に座っている相手と目くばせをする。 その相手の女性は、短い白髪で目が大きく、小柄な人だった。私の行動をやさしい小動物のようなまなざしでじっと見つめている。 私は紙袋からコーヒー豆を取り出し、手動のコーヒーミルの本体へそそぐ。辺りがコーヒー豆のいい匂いに包まれる。 カラカラっときれいな軽い音を立てて、豆は本体の底へおさまっていく。 「さ、やりますか」 と私は言った。女性は

あげものばあちゃん

「Wさん、ご飯の時間ですよ。」 「あげもの」 「Wさん、今日は晴れましたね。」 「あげもの」 「リハビリの時間ですよ、Wさん。」 「あげもの」 「今日のお昼はなんでしょうね。」 「あげもの」 最後のやりとりは合っていそうな感じだが、今日のお昼はうどんだったりする。 Wさんは当施設に入所してきて「あげもの」という謎のことばしか返さない変わったタイプのおばあちゃんだった。 こちらが何を言っても「あげもの」しか言わないのだ。 そしてとても無表情。 何が彼女を

彼女だけが見えていた風景

その瞳に何がうつっていたのか。 どんな景色が見えていたのか。 思い出しても、いまだに想像することができないものがある。 *** 昼下がりの午後 廊下にあたたかい陽ざしが差し込んでいた。 私はAさんと歩行練習をしていた。 Aさんは小柄で眼鏡をかけている。80代の女性だ。 転倒して骨折してしまい、手術をしたものの足の力が衰えてしまったので、施設の中は車椅子を使って移動している。 やさしい方であまり主張はしないが、読書をよくされていて、いろいろな事を教えて下さった。

【自己紹介】あたたかさに触れること

いつものデイケアで、行われるやりとり。 私は介護老人保健施設に勤めているしがない作業療法士だ。 長く勤めていると、当たり前だが担当している方が少しずつ老いていく。 と同時に私も老いていることに気づく。 「お互い年取りましたね」なんて、言ったりする。 そして、認知症が少しずつすすみ、私のことも少しずつ認識できなくなってくる。これは私自身がさみしさを感じることではあるが、変わらず同じ温度で接しながら、その人のもうあまり出てこない昔の諸々を含みつつ、一緒につつみこめたらい