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【読書2】芸術を愛する全ての人へ/森村泰昌著「生き延びるために芸術は必要か」

コロナ禍を経験したアート好きであればつい手に取りたくなる一冊ではないだろうか。

本作はセルフポートレイト作品で知られ、「私とは何か」を追求してきた美術家・森村泰昌氏による"人生論ノート"である。

概要はこちら

2019年から現在まで、某大学で毎年数回の講義を担当させてもらっている。美術家としての私がその時々に考えたこと、伝えたかったことをお話しするのだが、これまでの議論をふりかえってみると、「生き延びる」というテーマに関連した内容が意外におおかった。(「はじめに」より)
自然災害、戦争、AIの発達、地球環境、パンデミック、情報革命、差別、貧困……「生き延びること」について危機を痛感する事態が繰り返し起きている。ゴッホの自画像など、歴史的な名画に扮したセルフポートレイト作品で知られ、「私」の意味を追求してきた美術家モリムラが、「芸術」を手がかりに、「生き延びるとは何か」というテーマに取り組んだM式・人生論ノート。

光文社ホームページより

本作で語られる内容はタイトルよりもやや広く、「生き延びる」をひとつの大きなテーマとして様々なテーマについて語る構成となっている。

はじめに――なぜ、「生き延びる」なのか
第1話 生き延びるのはだれか
第2話 「私」が生き延びるということ・その1
第3話 「私」が生き延びるということ・その2
第4話 華氏451の芸術論
第5話 コロナと芸術
第6話 生き延びるために芸術は必要か
第7話 芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その1
第8話 芸術家は明治時代をいかに生き延びたか・その2
おわりに――生き延びることは勇ましくない

光文社ホームページより

本書に興味を持たれた方は、まず「はじめに」を読んでみていただきたい。
森村さんの基本的な価値観、そしてどのような思いで本作を書かれているのかを大まかに掴むことができる。
ここで何か共感できるものがある方、興味が湧いてくる方にとっては最初から最後までとても興味深く読める一冊だと思う。

と思ったら光文社新書さんのnoteで「はじめに」が全文公開されている!素晴らしい!

なお、私自身はというと、森村さんの思いに共感しかなく、また大好きな司馬遼太郎の「坂の上の雲」も取り上げられるということで「絶対読む!」の一択であった。
というわけで、ここで「はじめに」の中から印象に残った部分を自分用の備忘も兼ねて引用しておく。

建物に宿る長年の記憶のことを「命」あるいは「心」ととらえ、こわれゆく建物の柱や窓や壁や床や屋根、それらの総体を人間の「身体」と同等に感じてしまう者にとっては、それがどんな建物であれ、簡単に見放すことなどできるわけがない。

森村泰昌「生き延びるために芸術は必要か」p.19-20

役に立つことと生き延びることは、まったく別問題である。役に立つから生き延びるのではない。役に立つかどうかとは無関係に、生き延びたい、生き延びていてほしいとねがう気持ちが、なにものかを生き延びさせるのである。

森村泰昌「生き延びるために芸術は必要か」p.21



以下ではテーマごとに印象に残った点等をいくつか綴っていきたいと思う。

生き延びるのはだれか?

第1話のテーマは「生き延びるのは誰か」。

「生き延びる」の主語は「私」なのか、あるいは「私たち」なのか?そして「私たち」というとき「私たち」の射程はどこまで及ぶのか?

森村さんは人間が生き延びるためには人間以外に目を向けて見ることこそが重要ではないか?と投げかける。

先日読んだ本(中島岳志氏・若松英輔氏共著「いのちの政治学」)の中にも同様の視点が示されていたように記憶しているが、人間もまた自然の一部であるということを改めて見つめ直す時期にあるのではないかということを考えさせられるテーマである。

ゴヤとベラスケスは芸術家としてどう生き延びたのか?

第2話・第3話ではゴヤとベラスケスの絵画に隠された秘密を解きながら、ゴヤやベラスケスが権威に屈せず芸術家としてのプライドをどう守ったのかといった辺りのことが綴られており、アート好きにはたまらないパートだ。

絵の楽しみ方は無限だ。
前提知識なしにただ目の前にある絵と向き合うという楽しみ方もそれはそれでとても素晴らしいけれど、描かれた当時の社会情勢や画家の思想、宗教観などが見えてくると絵の見え方がガラリと変わることがある。
第2話・第3話ではそんな西洋絵画鑑賞の面白さと奥深さを改めて感じさせてくれる。

忘却とともに生き延びる

第4話では、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」やデブラ・ディーンの「エルミタージュの聖母」といった小説を取り上げられながら「忘却」をテーマに生き延びることについて語られている。

紹介されている「エルミタージュの聖母」という小説がとても素晴らしく印象的だ。

所蔵品をすべて疎開させ空っぽになった戦時下のエルミタージュ美術館にある日30人ほどの少年兵がやって来る。学芸員の彼らにギャラリーツアーをすることになりる。肝心の絵画がない空っぽの美術館でギャラリーツアーは成り立つのか?
「エルミタージュの聖母」には学芸員の記憶と少年兵たちの想像が奇跡的に重なるその瞬間の奇跡が描かれている。

なるほど…記憶も想像は「いまここにないもの」に向き合うという点においてはとても似通っている。

表現とは、記憶の想像化(「かつてはあったが、いまはもうここにないもの」を「いまここにあるもの」となるように祈念すること)が、想像の記憶化(「いまもむかしも、ここにないもの」を「いまここにあるもの」にしようとする意志)に寄り添うことによって生じる、虚実の彼方の「芸術」という名のリアリティのことである。

森村泰昌「『忘却』をめぐる三つのエピソード」より 

忘却されたものに目を向けることこそが芸術の役割だとすれば、芸術の中には忘却世界が生き延びているに違いない。矛盾するようだが忘れ去られたはずの世界が時代を越えて生き続けている…ここに私たちが「芸術」というものに心惹かれる理由があるのかもしれない。

芸術は不要不急なのか?

第5話では「コロナと芸術〜パンデミックを生き延びる〜」と題して、これまでの非常事態において芸術がどのような立ち位置にあったか、あるいはどのような役割を果たしてきたかが語られる。
そして、芸術は誰のためにあるのか?というテーマに辿り着く。
コロナ禍での芸術に携わる人々の悲しみ、苦しさ、虚しさがとてもよくわかる章になっている。

ちなみに私自身も美術館に行くことすら許されなかったコロナ禍はアート好きのはしくれとしてとても辛かった。
「不要不急」という言葉は個人的にあまり好きではないので使いたくないが、たしかに芸術がなくても生き延びることはできるかもしれない。でも「豊かに」生き延びることはできなかった。次章のテーマを少し先取りしてしまうような形になってしまったが、それがコロナ禍で得た私の答えだ。

生き延びるために芸術は必要か?

第6話はいよいよ本書のタイトルでもある「生き延びるために芸術は必要か」について。

商品と作品の違い/エンタメ会場と美術館の違い/芸術と芸能の違いなどを考察しつつ、最後に中島敦の「名人伝」を紹介した上で、「生き延びるために芸術は必要か」について森村さんなりの答えが導き出される。
答えは意外なものといえば意外なものかもしれない。本のタイトルにまでしたのにこういうオチか!と思う人もいるだろう。けれども本書の序盤で「二者択一ではなくもうひとつ別の選択を工夫する」と言っていた森村さんらしい答えだなと思ったし、芸術に限らず全ての物事の真髄に通じる答えであるように思った。

ちなみに第6話の中で美術館についてこんな一節が登場する。

美術館とは、「あらかじめわかっていることを再確認する」場所ではなく、「こんなこと、ありえへん」という「わからなさ」が常態である

森村泰昌「生き延びるためには芸術は必要か」p.179

いやーまさにその通り!「わからなさ」こそがアートの魅力なのだ。
昔、友人を誘って某現代アートの祭典に行った際に「結構高かったのに全然意味がわからなかった」とつまらなそうに言われて唖然としたことがある。いや…だってわからないのは当たり前じゃないか!
もちろんそれぞれの趣味嗜好なのでアートを楽しめない人がいることも仕方のないことではある。ただわからないから面白くないと門戸を閉ざすのは非常にもったいないことではないだろうか。

芸術に限った話ではないのだが、自分の価値観では理解できない物事の存在を認める、そしてできればそれを楽しむくらいの余裕を持つ、そうすることで自分自身の凝り固まった考え方をほぐすことが重要だと個人的には思っている。

芸術家は明治時代をいかに生き延びたのか?

明治時代といえば社会が、そして人々の価値観が大きく変わったいわば激変の時代だ。

第7話では「夏目漱石と『坂の上の雲』から明治を読み解く」と題して、夏目漱石にとっての明治と司馬遼太郎が描く明治の違いを考察する。

「坂の上の雲」は20年来愛読しているし、一番好きな小説は?と問われれば「こころ」と答えることもある私だが、両者の明治観の違いを意識的に考えたり言語化したりしたことはなかったので非常に興味深かった。

その上で第8話では明治を生きた画家青木繁と坂本繁二郎が明治という激変の時代、勇ましい時代をどう生き延びたのか?が語られる。

本書を読んで初めて知ったが、青木繁と坂本繁二郎ひ同い年で同郷出身だという。しかも名前には「繁」の文字。不思議な運命にでも導かれるように友としてライバルとしてまさに同じ時代を生きた二人である。
「同じ時代を生きた」と言っても実は青木は僅か29歳で夭逝してしまう。一方、坂本は明治大正昭和という3つの時代を生き抜き87歳でこの世を去る。
激動の時代を全力疾走した青木とどちらかと言えば寡黙にじっくりと足下を固めながら生き抜いた坂本。二人の全く異なる生き様から見えてくるものとは?

あまりネタバレをするのは良くないがこんな一説が印象に残った。

私はこう思います。青木繁と坂本繁二郎は、「ふたりでひとつの旅をした」のではなかったかと。

森村泰昌「生き延びるために芸術は必要か」p.262

あらためて「生き延びるために芸術は必要か」

森村さん自身が同趣旨のことを本書の中で書かれているが本書は決して一本道ではない。良い意味で蛇行しながら芸術の役割や「生きる」ということについて考えさせられる構成となっている。

もちろん「生き延びるために芸術は必要か」ということについて森村さんなりの考えも示されているが、本書を読んで最後にたどり着く場所は読者それぞれに異なるような気もする。

「おわりに」からも引用したい部分がたくさんあるがさすがにこれから読む方に申し訳ないので、残念だが引用は控えておきたい。

ちなみに冒頭の方で本書の「はじめに」を読んで共感しかなかったと書いたが、「おわりに」もまた共感しかなく一種の驚きすら感じた(アイデンティの空白を抱えている話や三島由紀夫の「金閣寺」への愛など)。

そのせいもあってかなぜか「おわりに」を読み終える頃には熱いものすら込み上げてきた。

さあ!気負わずに身の丈に合わせて生き延びていきましょう。

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