ドラフト、私の記憶が確かなら‥‥1992年part3


では3位‥‥。

『第3回選択希望選手 中日 野口茂樹 投手 丹原高』
安達、菊地原とならび、高校生サウスポー三羽烏といわれた野口。当時の雑誌には『カーブだけで飯が食っていける』と紹介されている。スポニチの予想でも外れ1位候補に入っていた。いわゆる『よくここまで残っていた』選手。これが大当たりだった。プロではスライダーを武器に96年にはノーヒットノーラン、98年は14勝、99年には19勝をあげてMVPを獲得した。制球難を解消したのは宮田征典、山田久志と名コーチの指導があったのも大きかった。


『第3回選択希望選手 横浜 五十嵐秀樹 投手 三菱重工神戸』
当時は『野球太郎』のようなドラフト情報雑誌はなかった。だから、この順位の選手はどういうタイプかは知らない選手もけっこう出てくる。ロッテとの競合だったが、横浜が引き当てた。五十嵐はプロ入り後は『ヒゲ魔神』として中継ぎとして貢献。98年の優勝に貢献する。

『第3回選択希望選手 広島東洋 鈴木健 投手 日本石油』
当時、病気療養中だった津田恒美氏の背番号14を引き継いだ男。本当は伊藤智にと思っていたのかな?いいボールはあったが、勝てないピッチャーでそのまま終わってしまった。背番号14は96年のドラフト1位に受け継がれることになる。

『第3回選択希望選手 オリックス 牧野塁 投手 山梨学院大付高』
膨大なリストには『B』ランクとして載っていた。確かMAX142㌔くらいだったと思うが、プロで大幅にスピードアップ、156㌔をマークし、今でいう『プロスペクト』として注目されたが、制球難で伸び悩んだ。思い出すのが、楽天が坂を出して牧を獲得した時、阪神よく足下を見たな!という印象でした。

『第3回選択希望選手 読売 西山一宇 投手 NTT四国』
1位候補がようやく‥‥。西山は巨人逆指名を公言し、名前をあげなかったが、他に希望球団が3球団あることを示唆していた(ヤクルト、西武、ダイエーだったと言われる)。ドラフト前日に希望外球団から1位の打診があったが、巨人希望を貫いた。いいボールはあったが、テークバックの大きな外回り、肘の出ないアーム式投法が大成を阻んだ。

『第3回選択希望選手 ヤクルト 真中満 外野手 日本大』
東都屈指の外野手。近鉄ファンとしては内匠よりこの選手をとって欲しかった。ノムさんの時代よりも若松さんの時代に活躍したイメージです。2001年の日本シリーズは古田の凄さに加え、トップバッターの真中と大村の差が大きかったと思っています。監督としてもリーグ優勝に導いていますし、プロ野球ニュースでのトークも抜群に面白い人ですね。

『第3回選択希望選手 西武 豊田清 投手 同朋大』
『プロ野球ニュース』の中井美穂(元フジテレビアナウンサー・古田敦也夫人)さんが週刊誌で情報を得る時に西武の情報はスポニチから得ている(情報が間違っていたらすみません)と当時おっしゃってました。この年のドラフト、根本さんの去った西武スカウトは小池をリストから外してました。スポニチの評価では小池の評価は『B』となってました。そのスポニチの膨大なリストの中である無名のピッチャーの評価が『A』になってました。その投手こそ豊田清投手でした。スポニチのリストに西武がからんでいるかはわかりませんが、豊田はプロ入りを拒否しながら、指名回避の対象にはならなかったのでそこまで12球団の評価が高かったというわけではないのでしょう。ただ、西武がうまく囲っていたとは思いますね。

でも、この年の3位は1位なみにいい選手がいました。

4位‥‥。

『第4回選択希望選手 福岡ダイエー 佐藤真一 外野手 北海道拓殖銀行』
24歳の時も普通に上位指名されてもおかしくない選手だった印象。バルセロナ五輪では全日本の3番で強肩を武器に予選ではマウンドにもたった。27歳で下位指名ながら、契約金1億円、背番号『7』と破格の条件でプロ入りだった。
でも、ホークスでは伸び悩んだ。活躍したのは、ヤクルトに移籍してから、ノムさんの時は主に強肩を生かした守備がため、若松監督の時にバッティングが開花してレギュラーを獲得した。指導者としてもヤクルト、オリックスなどで活躍している。

『第4回選択希望選手 ヤクルト 山本樹 投手 龍谷大』
日刊スポーツのリストでは『A』評価だった。当初は制球難に苦しみましたが、セットアッパーに専念してから、活躍が目立ちました。その時の監督はノムさん、山本氏は現在指導者ですが
『野村監督は技術論よりも精神論、組織論の話が多かった』とおっしゃっています。

5位‥‥。

『第5回選択希望選手 横浜 戸叶尚 投手 佐野商高』
プロ入り後にサイドスローに変更、『トカちゃんボール』(シンカー)を武器に97年には10勝をマーク。この頃はベイが下位のピッチャーも育っていた印象。楽天創設時のメンバーでもあります。2006年に睾丸癌を患ってその年に引退。

『第5回選択希望選手 西浦克拓 投手 上宮高』
上宮高時代はエースで4番。控え投手には黒田博樹(元広島)がいた。プロでは長打力を武器に98年前半は17本塁打を打ち、落合を引退に追い込んだ。が、元々、ドアスイングの弱点があり、99年に急降下。そのまま活躍できずに2005年に引退。小関さんがかなり酷評していたのを覚えています。

『第5回選択希望選手 福岡ダイエー 渡辺正和 投手 東京ガス』
以前、西武がドラフト1位で来るのでは?と言われた投手。26歳でのプロ入りとなりましたが、けっこう伸び悩んだ印象です。2000年、オープン戦中だったと思いますが、東スポに『近鉄 渡辺獲得へ』の記事が掲載されました。結局、トレードはなかったのですが、渡辺はこの記事をみて奮起したのかはわかりませんが、中継ぎで60試合、防御率2.54の好成績を残しまし、引退する2004年まで、中継ぎでフル回転することになります。

『第5回選択希望選手 近鉄 大島公一 内野手 日本生命』
この年の野手イチオシの選手。走攻守にガッツがあって都市対抗野球では首位打者を獲得。間違いなくプロで活躍する確信がありました。3位の内匠よりも明らかに実力は上。予想通り、2年目にはレギュラーをとったのですが、3年目は極度の不振で、でも、何でトレードしたかなあ?

6位‥‥。

『第6回選択希望選手 阪神 塩谷和彦 捕手 神港学園』
高校時代は捕手、98年に内野手に転向する。ノムさんが監督に就任した時期から少しずつ出場機会が増えた反面、ノムさんの采配にキレて途中帰宅したり、かなりの問題児であった。結局、2001年にオリックスに移籍、2002年からオリックスは暗黒の時代となったが、それに乗じてレギュラーを獲得。オールスター出場も果たした。が、引退後は残念な情報が多く、ノムさんの目に狂いはなかった言えるでしょう。

7位‥‥。

『第7回選択希望選手 ヤクルト 小倉恒 投手 全足利クラブ』
ドラフト前に『ニュースステーション』で取り上げられました。足利市職員がドラフト候補であると、その時のインタビュー、凄くボソボソしゃべっていて無口なイメージでした。ヤクルトでは伸び悩みましたが、オリックス移籍後は中継ぎ、ストッパー、先発(2桁勝利も)で結果を残し、『仰木のトレードにはいつも騙される』とノムさんもぼやいた。楽天移籍1年目は防御率7.79で1度は戦力外通告を受けるが、息子カツノリの進言を受けたノムさんが再雇用を決め、翌年は好成績をおさめた。

これ以外ではプロ入りを拒否した二人の上位候補について。

森尾和貴(西日本短大付高→新日鐵八幡)
防御率0.20での全国制覇。MAXは142㌔くらいでしたが、コントロールとスライダーのキレが抜群でした。社会人入り後は故障の影響もあり、プロ入りはできませんでした。高校時代にプロ入りしていれば、2位~3位の評価があったと思います。が、個人的にはスライダーの時にやや肘が下がる印象を受けました。

坂田正樹(熊本工高→亜細亜大)
自分がこの年に伊藤智、杉浦正則の次に評価していたのはこのピッチャーでした。本当にミサイルのようなストレートを投げていたピッチャーでした。ため息が出るくらい『はえー』と思いました。亜細亜大では故障に泣いたのか、4年時はドラフト候補にもあがりませんでした。高校でプロ入りを希望すれば、遅くとも2位までには消えていたと思います。YouTubeでもアップされています。ただ、フォームが悪いと突っ込まれそうですが、高校の田中将大よりフォームはよかったかな?




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?