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三浦春馬君の訃報が辛い理由、ネガティブな同一化・共感化。(4)

「カネ恋」を見て以降、気分が落ちている。
あのドラマの中の春馬君は、今年の6~7月頃の春馬君で、その姿を見ると、色々と考えてしまう。
テンションだだ下がりの低空飛行でお送りする、シリーズ記事の4回目、今回でこのシリーズも終わりとなる。

竹内さんの件で、春馬君に代わって竹内さんのことで気持ちが覆われてしまうとか、春馬君と竹内さん双方同じぐらい考えてしまうのかと思いきや、案外そうでもない。
竹内さんの影響はあまりない。
やはり、依然、春馬君のことだけをずっと考えているのにも、何か理由があるからだろうと思う。
以下、3つの記事内で長々と、こんなに春馬君が亡くなった悲しみを引きずる訳を色々と考えてきた。

三浦春馬君の何がそうさせるのか

春馬君の何に引っかかって、私の関心が春馬君に向き続けるのか考えていく、その続き。

・春馬君の演技が良いから?

これは亡くなってすぐというより、その後に春馬君の作品を見続けた後のことなのだけど、春馬君は、どの作品でもしっかりと役を作り込んで臨んでいたことがよく分かった。演じた役柄自体が、不良の若者からイケメン年下男子、ドラァグクイーン、逃走犯、普通の会社員に、エリート童貞、詐欺師と、書ききれないくらいに本当にバラエティに富んでいたこともあるけれど、どれも全部違う三浦春馬だった。比較に出して悪いが、その役者個人のキャラが強すぎるのか、演技力の問題か、どんな役を演じても同じに見えると揶揄されている人もいる。そんな中でも、春馬君の場合は、2つとして同じ三浦春馬はいなかった。割と重めなテーマを取り扱う作品が多く、その役の複雑な心理描写を演技で表現できたのも、しっかりとその役の背景を学んだり、想像力を働かせて考えたりした結果だろう。春馬君が歳を重ねていくにつれて、どんどんその演技の深みが増して行っているのがよく分かった。天才的な、というよりかは努力家の演技派。ただのイケメン俳優ではなかった。実直に演じてきたことを今になって知る。胸を打つ。こんなに素晴らしかった俳優の存在に、もっと早くに気づけなかったのか、自分を責める。

・観たかったのに観れなかった作品があったから?

別の記事にも書いた通り、これは「キンキーブーツ」のことだ。観に行かなかったことを本当に悔やんでいる。エンターテイメントにおける見たいものは肉眼で見るというポリシーのもと、私は子供の頃から、ジャニーズ、バンド、ダンスグループ、ソロ歌手のライブも、俳優の舞台だって何だって会場に足を運んだし、海外アーティストだって来日公演を観てきた。例えば、マイケル・ジャクソン。マイケルのライブには行ったことがあって、その思い出があったからか、マイケルが亡くなった時も比較的すんなり受け入れられた。しかし「キンキーブーツ」は油断した。まさか主演の一人が亡くなるなんて、想像だにしていなかった。観たかったものが観れなくて、非常に後悔したことは、過去に2つだけあるのだが、それにもう1つ加わることになった。これも一生忘れないと思う。

・春馬君は歌が上手だから?

私の個人的な好みを言って申し訳ないが、歌が上手い人は好き。歌って踊れる人はもっと好き。

・春馬君の人柄が良いから?

これも亡くなって以降のことだけれど、SNSに春馬君が出演したバラエティ番組の動画がアップされていて、春馬君が受け答えする様子を沢山見た。どんどん見た。見ずにはいられなかった。今も見ている。そうしていくうちに、彼が、礼儀正しく愛想があって、真面目でストイック、優しくて偉ぶらない、そして、ちょっと天然なところもある、とにかく素敵な人であることがわかった。こんなに顔も名前も売れている俳優なのだから、他の若い俳優たちと同様に、ちょっと高飛車な感じやぶっきらぼうな感じがあってもよいだろうに、全く嫌味のない人だった。人間だから、きっと春馬君にも良い所と悪い所があるのだろうけど、少なくとも、春馬君からは悪い所が一切見えてこなかった。見せないように努力してきただけかもしれない。メディアを通して私たちに伝わってきた春馬君の印象と同じことを、春馬君の近しい人たちも皆、異口同音に言う。裏表もない人なのかもしれない。それか、自分以外にはすべて表の自分しか見せなかったかだろう。何て感じの良い青年なんだ!芸能界というタフでちょと擦れた世界に、よくぞこんなピュアな若者がいたものよ!と驚き、そんな素敵な人がこの世に存在してくれたことに感謝の念を抱く。それと同時に、どうして春馬君みたいな、よくできた人が死ななければならなかったのか、考えては打ちひしがれる。これが一番きつい。どうして春馬君は生きることをやめようとしたのか、というよりも、どうして生きることをやめようとした人が春馬君だったのか。よりにもよって、この人を連れて行かなくてもいいじゃないか。何で。惨い現実を受け止められなくなる。
上の演技のこともそうだが、春馬君が亡くなって以降、私が春馬君の作品を観なければ、SNSで動画を漁らなければ、春馬君のパーソナルなことも知らずに、こんな沼にハマるようなことにはならなかったのかもしれない。

私の何がそうさせるのか

一方、ここからは、軽く私側の要因をあたってみようと思う。

・他に熱中するものがなく、ヒマだから?

コロナ禍で自宅で仕事をするようになり、通勤がなくなって、以前よりか時間に余裕はあるのは確かだ。仕事や家のことなど、一応はやらなけばならないこともあるのだが、最近の私は、春馬君の事を考えようと、他をやりくりしてでも時間を作っている節がある。能動的に考えに耽っている。また、他に、実生活において、何か集中して取り掛からなければならないようなことも特にない。ただ、今はそうだが、今後、何かしらの差し迫った困難が私に降りかかってきたとしたら、恐らく、その困難が私の心の内を占めていくだろうから、そうなった時には、春馬君のことを考えることは減っていくのだろうと思う。

・私はHSP(Highly Sensitive Person)?

ある日、自分の気持ちに折り合いが付かない私は、Twitterの世界でこのツイートを見て、HSPって何ぞや?と思って下のサイトに辿り着く。

チェックテストをやってみたら、は~い、出た!結構な割合でHSP気質を持っている可能性があると出た。正直なところ、今までの人生、色々と生きづらさを感じていて、自分では、それは私自身の人格に問題があるのだろうと思っていたのだけど、そういう気質だったとは知らなかった。HSPの気質の説明は上のウェブサイトに譲るが、4~5人に一人ぐらいの割合でいるらしい。HSP気質を持っていると言われたら、これまでの人生で起こった様々な事の説明がついていき、あれもこれも、この気質だったからそうなのかと、壮大な種明かしを今になってされた感じがする。共感が強い結果、時々、人の気持ちや行動が読めてしまうことがあり、驚かれることもある。この気質だからこそ、今の仕事が上手くいっているのだとも気付く。春馬君の事でこうなってしまったのも、私のこの気質が大きく影響しているように思う。気になってしまったものは、気にするなと言われても気になるし、共感せずにもいられない。そして、深く深く考える。春馬君の事も、もう私のこの気質ならどうしようもないように思う。急にやめるのは無理だ。暫くはずっとこのままだ。
自分にHSP気質がありそうだと、前もってわかっていれば、春馬君の情報となるべく距離を置くようにできたかもしれないが、どうだろうか。やっぱり気になってしまったかな、わからない。
なお、最近では、田村淳さんが自身がHSPであることを公表したりして、話題になっているが、私は、私自身にHSP気質があるらしきことは、実生活では誰にも言っていないし、言うつもりもない。このnoteにだけ、書きおいておく。

まとめ

春馬君には引っ掛けやすい要素があって、私には引っかかりやすい要素があって、今回の件で一気に引き寄せられて、私は蔦に絡まったかのように、沼にハマって沈んでいった感じがする。
私に「ネガティブな同一化」が起こった要因を、一通り考えてみたからこそわかったけれども、ただ考えただけでは、この心の沈みは解決されない。
こんな私を再浮上させるのは、難儀であろう。
身近な人の闘病とか死とか、もちろん、ハッピーな事でも良いのだが、他の強烈な衝撃を受ければ、関心はそちらにスライドしていくかもしれない。
その時を待つだけだ。
海原先生はそれをわかっていて、予めショートカットして結論へ導いておいてくれたのかもしれないと、今なら思う。
一通り考えた後だから、先生のアドバイスもすんなり受け入れられる。

私が気を付けなければならないのは、ただでさえ沈んでいるこの状態を、より悪化させてはいけないことだ。
今は普通にできている日常生活に、支障をきたしてもいけない。
海原先生の言うように、この心の苦しみ、悲しみはため込まず、吐き出して、誰かと共感しあって薄めておくのが良く、やはり、先生のお勧めである、気持ちの言語化はやっていくべきであろうと思う。
とはいえ、私には、実生活で春馬君のことを話して共感し合える人はいない。
家族や友人、同僚の何人かには、「春馬君のことがショックで…。」みたいに伝えてみたが、反応が薄かったし、意外に思われたりするのも嫌で、以降言うのをやめた。
だから、このnoteだけに心境を吐露することにしているが、これは継続していった方が良さそうだ。
この2カ月弱、ここに感情を書きなぐる作業を続けてきたが、単純に、自分の思考を言語化してアウトプットするだけでも、案外、心はスッキリするものだと実感している。
また、noteに来る皆さんは優しい方が多いのか、noteでは沢山の「スキ」を、twitterでも「いいね」をいただいている。
これは共感の意味だと、勝手に受け取らせてもらっている。
そう思うと、私の孤独感が薄まっていく。
世界のどこかに居る、私と似たような気持ちの人が、悲しくても辛くても今日を生きているよと意思表示してくれているのだから、私も生きないとね、と思える。

春馬君はもういない。
思っても、泣いても、春馬君は帰ってこない。
辛くて仕方がない。
それに変わりはないけれど、どうにか毎日、生きていくしかないのだな。
ではまた。






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この記事の続編はこちら。


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