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よくなろうとするとはまる罠

ミヒャエル・エンデの『モモ』を読んだ。

昔、読んだことがあるけれど、
ふと読みたくなった。

きっかけは四年前に出逢った歌だった。

歌い手は、病で一度声を失う。でも、八年の月日を経て、新しい声を得て、再び歌今はじめた。それはかつてのシンガーだったときとは全然別の声だった。

彼女が新しい声で出したアルバムが、モモ ひかりの子だった。
『君は何をしに この地球へ来たのかな』
問いかけるように歌う元ジャズシンガー佐々木朝美さん。

あれから私らしく生きようともがいて、何もかも削ぎ落としてやめて原点に戻ろうとしたとき、またあの歌を聴きたくなった。


そした、モモつながりであの時間どろぼうの話の『モモ』を読み返したくなった。

浮浪者の女の子が主人公は、すばらしい聞き手の才能があって、自由に生きている。

大人たちが規則や常識にはめようとするけれど、自分でやれると言って、円形劇場あとに住み始める。

まわりの人たちはみんないい人たちだった。
それが、時間貯蓄銀行の灰色の男たちに弱みにつけこまれて、みんなゆとりを失ってゆく。それと同時に、生きがいや穏やかな日常の幸せも失ってしまった。

私みたいだと思った。
なぜなら、私の人生こんなもんじゃない、もっとよくなりたい思いに駆られ、いろんなことに手を出した。

いいと言われる人に会いに行き、
髪を切ってもらったり、
マッサージしてもらったり、
メイクを教えてもらったり、
スタイリングしてもらったり、
声のトレーニングを受けたり、
日本文化を学んだり、
茶道を始めたり、
ヒーリングを受けたり、
エネルギーワークをしたり、
易学を学んだり、
スピリチュアルなリトリートに行ったり、 
……

当然仕事もしているから、
いっぱいいっぱいになって、
時間がなくなった。

毎日朝から夜までスケジュールが詰まっていて、
寝るのが深夜で、睡眠不足だった。

この考えは、とてもまっとうだと思い込んでいた。むしろ、自分にとっていいことをしていると。

疲れがたまるのは言うまでもなく、
体調も崩して高熱で一週間寝込んだりした。

セーブしなくちゃと思うのだけれど、
一つやめたらいつのまにか二つ違うことを始めていて、結局いそがしさは変わらなかった。

なぜそうなるのかといえば、
自分が変わりたかったから。
変わるために新しいことをする。
人生を向上させていくために。
よりよい自分になるために。

精神的に向上心のないものは馬鹿だ

夏目漱石『こころ』

と、漱石の主人公が言った言葉が
まさに私のなかにあった。

でも、じっくりゆっくり考える暇もないほど、
スケジュールに埋め尽くされていた。

目の前のするべきスケジュールをこなすだけで、
日々が過ぎていった。

なので、一旦全部やめてみようと思った。
こう思ったのは、初めてではなかった。
やめても、これはやめられないと何かを継続して残したり、新しいことを始めて同じことの繰り返し。

これだけは私の楽しみだと思っていた
易学を学びに行くのもやめた。
これをやめるのはつらかった。
だって、楽しいことだったから。
やめるのがつらいのは、中毒だ。
易学は、自分ひとりでも学べる。
何も外に学びに行かなくてもいいのに、
やめるのがつらくて、私は死んだんだと思ってやめた。死ぬ気でやめないといけないほど、
行きたいものだった。

私が行くのを控えていた別の会の主宰者から、
参加した方がいいですよと声をかけられた。

行った方がいいと言われれば行く。
なぜなら、よくなりたいから。

それで行ったけれど、
行くのを控えていたのは
自立して自分軸を確立させるためだった。

行くたびに、
参加しないと私はよくなれない
という太鼓判を自分に押している気がしたから。

会に所属しているだけで安心していた。
そもそも、何かに所属する時点で、
何かに寄っかかろうという意識が根底にあることに気づいて、
翌日に所属すること自体を辞めることにした。

それで、すべてをやめた。
いけばなの師に習いに行くことさえ、
トラブルに巻き込まれて、強制終了した。

いけばなは自分ででもできる。 
いけばなのお稽古してもらうのをやめてみて、
自由にお花と向き合えるようになった気がした。

結局、お稽古というのは、
自分でいけた作品を評価して直されるもので、
正直のところ、そこに苦痛を感じていた。
楽しさよりも、枠にはまる窮屈さが優っていたことに気づいた。

型や形は大切だけれど、それよりも大切なのは、
いける心だとよく言われた。
そのいける楽しみが消えかけていたのかもしれない。 

原点に戻ろう。
お花を楽しもう。
自由に私の感覚で。

そもそも学びや習得は、
自分で体験しないと身につかないものだから。

いつもどこかに出かけて行って、
人に会って知識を入手して、
充実した毎日のようで、
自分と向き合う時間のゆとりはなかった。

全部やめてみて、
仕事から帰るとひとりになり、
休みの日もとくに何もなく、
突然にゆとりができた。

温泉にふらりと旅してみたり、
知らない街に行ってみたり、
行きたかった金子みすゞ記念館に行ってみたりした。

こんな好きなことばかりしていて
いいんだろうかと、不安になる。

休みに人にもほとんど会わず、
会いたくないのではなくて、
会う約束に縛られるのさえ
面倒になった。

こんなんでいいんだろうかと頭がよぎる。

でも、一見ムダで役に立たない時間のゆとりが、なによりも大切だと
モモが思い出させてくれた。

しかも、それを分かち合える人がいてくれるのが、幸せなのだと物語は語っていた。

なぜ私が号泣したのかは、
次回にお伝えしようと思う。

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