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『幸せになりたい』の因数分解

最近毎日聴いているラジオ『生活は踊る』のなかの名物コーナー、『相談は踊る』で敬愛するジェーン・スーさんが繰り返し仰る、「自分の欲望を舐めるな」という言葉。ずっと自分の中で引っかかっていて、自分に埋もれている欲望を掘り起こしてみようと自分を振り返ってみることにする。

まずは現状の棚卸しから。現在私が抱える最も大きく広い欲望は『幸せになりたい』である。

ちょっと広すぎるので、因数分解しながら進めていきたい。


私が常日頃心に留めているのは、心地よいと感じる瞬間をいかに増やし、継続させるかということ。生涯厨二病の特性を生かし、幸せとは何かを自我が目覚めた中学生くらいの時から馬鹿正直に考えてきた。大きく心身を崩す経験をして、よりいっそうその壮大すぎるテーマを真剣に考えるようになった。

現在の答えは、自分が心地よい、楽しい、面白いといった感情を味わう瞬間を分析して日常の中に増やしていく、というごく当たり前なところに落ち着いている。

少し科学的に考えると、幸せホルモンとよばれるセロトニンや、脳内麻薬とも呼ばれるエンドルフィン、ドーパミンといった脳内物質をいい塩梅で分泌できている状態のことをいろんな人が『幸せ』と呼んでいるのだろうと推測できるからだ。「あ、今エンドルフィン出てるわ」とは思わないが、飼っている鳥が自分の手のひらで寝ているのを眺めながらお酒をのんでいる時は最高に幸せだと感じる。そういう瞬間を自分でかき集めればよいのだ。少しずつ自分の「これ好き」を見つけ、それで日常を死ぬまで彩り続ければそれは『幸せな人生』なのではないだろうか。

また、『幸せとは何か』を考える上で、いくつか仮定を置いてみたこともある。

①まず、死ぬ瞬間に幸せだと思えれば良いのではないか、という仮説。終わりよければすべてよし、的な考え方である。ある種それは真実だと思う。しかし、今の日本では安楽死が是とされていないので死ぬ瞬間を選べない。事故や事件、災害によって突然死ぬかもしれない。死の方からやってくる上にタイミングも測れないとなると、老衰で大往生でもしないかぎり幸せ、という感情で死ぬのは難しそうである。死んだことがないので推測でしかないが。少なくとも、死に直面した状態の自分に人生が幸せであったかを総括して判断を任せるのは不安が残る。長生きしていれば痴呆もあるだろう。そんなことを考える体力も残っていないかもしれない。

②次に、もっと物質的な幸せを考えてみた。お金がたくさんある、良い家に住み整備された庭で焚き火を眺められる生活。容姿端麗、人間関係にも恵まれる。どれもあったら嬉しいが、本質ではないと思う。お金に関しては、ありすぎて悪いことは相続時に揉める可能性があるくらいだろうが、何に使うかが幸せに繋がるのであってお金それ自体=幸せではない。良い家は時が経てば減耗し、容姿は歳を重ねるごとに変化する。人間関係も流動的だ。物質的な幸せは必要だが、継続的なケアが必要なものだと思う。たとえば容姿なら、自分の美的価値観を研磨し更新して、変わっていく自分を常に好きでいる努力をする必要があるだろう。あくまで私の場合です。

総括して、幸せというのが私にとって一つの難関さえクリアしていれば良いというものではないことに気がついた。死ぬ時だけではなく、日常的に幸せを感じていたい。物質的な幸せも必要で、だが継続的にケアする必要がある。なんだったら自分の心身だってケアする必要がある。心身(特に心)がなるべく健康であるのが大前提だ。インフルエンザの時にとびきり美味しいご飯を食べても倦怠感としんどさが勝つのではないだろうか。何かに対して幸せだと感じられる精神状態も必要だ、心と体で幸せを認識するのだから。幸せが実は目の前にあるのに認識できなかったら元も子もない。

自分が幸せある状態を探し、またその環境を作る努力は怠りたくない。

では何が幸せか、というと大きなものはさっぱり浮かんでこない。ここでいつも思考が止まる。うにいくら丼を食べること、気温20℃位のよく晴れた日に散歩すること、仕事でいいExcelツールを作れた、友人とカフェでお茶をする、など具体的でささやかなものしか浮かんでこなかったので、今幸せ、と感じた瞬間をたくさん拾い集めて記録し、日常を彩るという帰納的な方法をとっている。ここまで真面目に考えておいてそれかという感じだが、自分にとっての幸せが何かわかっていたらこんなことnoteに書いていない。「ギター弾いてれば幸せ」「絵を描いていれば幸せ」「ビジネスで社会的に成功できたら幸せ」などといった大きな欲望は今のところ見つかっていない。

当たり前だが、一筋縄ではいかない。




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