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ちょっと思い出しただけ。亡き母と、不器用な父に伝えたいこと

母との記憶

小学1年生、6歳の頃に母を亡くした。
ガンだった。

幼稚園年中になったばかりの夏先、
母に大変なことが起きていることを悟った日のことはよく憶えている。

どこかへ向かう車の中。
祖母が運転する車、助手席には母が座り、
ぼくは後部座席で外を眺めたり寝転がったりしていた。

母が何か難しい言葉を発し、不意に妙な沈黙がうまれた。
それまで会話に入ることもなく外の景色に夢中だったぼくでも
違和感に気がつく異様な静けさ。
ラジオはついていた気がしたが、空気は静かだった。

ぼくはこの沈黙に気がついたことを察されないように、
でも変に音を立てないように、静かに外を見続けた。

後部座席と分断された運転席と助手席からは小さな声の中に
祖母の動揺と、反対に母の落ち着きを感じた。
流れで祖母が口にした
「あなたが死んだらどうするの」という言葉に
ぼくは口を挟まずにはいられなかった。
「おかあさん死んじゃうの?」
また沈黙。
後ろに年端も行かない子どもを載せていることを思い出した大人2人は
「そんなわけないでしょ〜」と取り繕った。

母からもらったもの〜そのいち〜

”リーダーシップを取りなさい”母から言われたことで最も記憶に残っている言葉。
印象に残っているというよりも、何度も言われて刷り込まれたものだ。

幼稚園から小学生になる息子がいるのに、自分は癌を抱えている。

母は自分の命を伸ばすことよりも息子の将来を考えてくれた。
仕事人間の父に息子を任せ切ることができないと考えて
一貫校に進学させることを目標にした。

それから”お受験”が始まる。
体を動かすことが何よりも楽しく、周りの子どもたちと遊びたい気持ちの中
母はお迎えに来て、ぼくを塾に連れて行った。

送り迎えの車の中、冒頭の言葉を何度も聞いた。
人に優しく、周りのためにということは当たり前。
その上でリーダーシップを取れと。

今の自分には母の教えが、確かに刻み込まれている。

夕飯前ぼくにとってはいつもの毎日。
母はポストから一通の手紙をもって戻ってきた。
明らかに緊張している。手紙を開き母は泣き崩れた。
第一志望からの合否通知、合格だった。
親族にその学校の出身者がいることが有利になる、
と言われる私立の一貫校。
親族に出身者がいない中での合格は母も信じられない様子だった。
母はぼくの頭をくしゃくしゃに撫で「よく頑張ったね」と言ってくれた。

母は命を削りながらぼくの人生を作ってくれた。

一番頑張ったのは母だった。

ことの重要さをきちんと理解できる今、
直接母にお礼を伝えられないことが、悔しくて仕方がない。

母からもらったもの〜そのに〜

入学して1年が経たずに母は亡くなった。
入退院を繰り返しながら見に来てくれた運動会、
徒競走で金メダルをもらったぼくを母はたくさん褒めてくれた。

葬儀は母が教諭をしていた幼稚園の教会で行われた。
驚くほどの人が最後の別れを告げに来てくれた。

ぼくが母と過ごしたのは6年間、物心ついてからはほんの少し。
ぼくは母のことをほとんど知らないが
参列者の人数は母がどんな人間だったかを物語っていた。

母の心配した通り、仕事人間の父は帰りも遅く
学校の宿題や必要なものがなかなか揃えられないぼくを
同級生の母たちがよく面倒を見てくれた。
母の旧友たちも休みの日にはうちに迎えに来て
たくさん遊びに連れて行ってくれた。

レールから外れて取り返しのつかない人生になる方が簡単だったぼくは
母が残してくれた周囲の人たちに守られ続けた。

今でも気にかけてくれるその人たちは紛れもなく母のくれたものだ。

いま、母に会えるとしたら

なにを話すだろう。どこから話したらいいだろう。
今のぼくを見てなんて言うだろう。

部活を頑張った話、片想いの話、女の子を泣かせた日の話
親父とめちゃくちゃに喧嘩をしたこと、第一志望の会社に入れたこと
全部話したい。

母と離れて20数年、
ぼくの人生は母のいない時間がどんどん長くなる。

叶わないことは分かっていても、どこかで、数分でも
話をする時間が欲しい。


母へ
あなたのおかげで、小さな後悔はたくさんありながらも、
総じて最高な毎日を過ごしています。
親父との関係も良好です。
性格が似ているのかたくさん喧嘩をしましたが今では
親子というより友達のような距離感です。
ぼくはあなたから教わったことをもとに生きています。
数年の短い間にぼくに与えてくれたあなたの全てが
ぼくを作り、強く、大きくしてくれています。
いつかゆっくり話しましょう。
またぼくの名前を呼んでください。

父の苦労がわかるようになった話

父とは一生分かり合うことができない
いつからか自然とそう思うようになっていた。
母を亡くしてから、一生懸命にぼくと向き合おうとした不器用な父。
不器用という言葉で話せるようになるまでかなり時間がかかってしまった。

今のぼくが見えるようになったことを憶測も含めながら書いていく。

人間として、父として

母のパートで書いたように、
ぼくは小学校から私立の一貫校に通った。
平日の保護者会に父が来られないことは理解していたが
休日のクラス会なども露骨に嫌がる父に
ぼくは不満を募らせた。

当時ぼくは自分のことで精一杯。
どうして来てくれないんだろう、
〇〇くんのお父さんは行事には毎回顔を出しているのに。
無邪気な子どもは平気でその疑問を父にぶつけた。

はじめは、のらりくらり躱している父も、
ぼくのしつこさと、ぼくに言っても理解できないことの間で
次第にイライラして怒鳴る。
その度にぼくは
愛されていない気がして大泣きした。

今考えてみるとどうだろう。
〇〇くんのお父さんは”週末だけお父さん”だったのではないか。

家事、育児、仕事。
父は毎日、父だった。

あの時にぼくから父に向けた乱暴な怒りは、
あまりにも自分勝手だったように思う。

私立の一貫校のママさんたちと、父が和気藹々談笑することも
想像できない。ぼくにもできないと思うから。

あの時、ぼくのために何もしてくれないように見えていた父は
一人の人間として、父として、難しい局面にいたのだと思う。

”小さい子どもを男手一つで面倒を見て大変”
という憐れみの目で見られるのも
気になったいたのではないかと思う。
ぼくも気になるはずだから。

絵に描いたような”同族嫌悪”

何度も書いているがぼくと父は似ている。
考え方も、性格も、自分自身の嫌いな部分も。
だから相手を見ているとムカつくし、
"相手をイライラさせるための言葉"もすぐに思いつく。

喧嘩は絶えなかった。
ぼくが父の言いつけを守らなかったこともあるが、
いっぱしの自意識を抱えたぼくにも譲れない考えが培われた。

父はぼくを、いいように扱おうとしている
そんなことになってたまるか
と意地を張った。

だが、やはり、父は父なのだ。
携帯電話を取り上げられ、
ゲームを取り上げられ、小遣いもなしになって
圧倒的な力の差でぼくを理不尽の濁流に巻き込んだ。

その濁流から逃れるように祖母を頼り、
孫が気になって仕方ない祖母に甘やかされる。
そんなぼくを見てまた父が怒る。

こればっかりは人生を何度やり直しても
うまくやることはできないだろうと思う。
書いている今も苦笑いがおさまらない。

父が手放したもの

ぼくは自分勝手だった。
父の心中など考えずに、
自分の境遇に甘えた傲慢な子どもだったかもしれない。

いつからか学生時代の拠点を母方の祖父母の家に移し、
父とはたまに顔を合わせる程度になった。

そこからは喧嘩も減ったが、
部活でかかるお金を無心しに行っては喧嘩をした。

今思うと、
生活のお金を父に頼らなければいけなかったのが問題だった。
親子ならあたりまえだが、、家庭の事情ってやつだ。

部活でいい成績を出せばそれなりに喜んでくれたりもした。
ならもっとお金を出してくれてもよかっただろ、とは思っている。


なんだかんだ、学費だけはきちんと出してくれたおかげで
大学4年生になり、就職先も決まり、
実家で父を酒を酌み交わした日。

父の彼女もいたが、親子の会話に入ってくるでもなく
水入らずでスラスラとお互いに思っていたことを話すことができた。

初めての感覚だった。

あの時、実はこう思っていた、だからこうした。
こう思っていたのに、あぁ言ってしまった。

そんな話をしながらお酒が進んでいった。

一息ついて、不意に父が口を開く。

「うまくやってやれなかったかもしれない。」

何言ってんだと思ったが言葉が出なかった。
今更そんなこと言ってんじゃねえと思ったが
口が開かなかった。
同時に涙が込み上げ、混乱。
感情の整理がつかなかった。

父も黙った。
見かねた父の彼女が間に入って話す。

「君のお母さんが亡くなってすぐ、父には海外赴任の話があった」
「それを経て帰って来ることが出世コース。でも父は断った」
「あなたと過ごすために」

ぼくも知らないことを、この人が知っていることが違和感だが
父はそんな話を一度でもぼくにしたことはなかった。

涙を堪えて
今更そんなこと言われても、
俺だって我慢したことがたくさんあった
とまた自分勝手な返答をした。

続けて、
父がぼくをどう思っているか、愛しているのか
親子なら当たり前だがずっと聞けず、
心の中でわだかまっていたことを聞いた。

父は黙った。
すかさず父の彼女が
「ちゃんと伝えなさい、いつも私には言っているでしょう」

「誇りに思ってる。」

涙が止まらなかった。

父の哲学

父は具体的な躾(お箸を綺麗に持てとか、服を畳めとか)
のことは口にしなかった。
ただ哲学や、美学に近いことを繰り返した。

「格好悪いことはするな」
どこぞの池袋西口で耳にしたような言葉だが、
これは今のぼくの行動指針の一つとして確立している。
お箸を綺麗に持てないのは格好悪いと思ったから
ぼくはお箸を綺麗に持てるようになった。

「軽率に嘘をつくな。よく考えてバレない嘘をつけ。」
そもそも嘘は格好悪いからやめておけ、
と続くのだが
嘘はだめだ!と頭ごなしに言われなかったことが強く印象に残っていて
嘘も方便を父なりにいった言葉と理解している。
格好悪いことをするなに包含されている気もする。

「謝罪とお礼だけは後回しにするな。」
謝罪は後回しにするとどんどん、しにくくなり
お礼は後回しにすると気持ちも薄らぎ、伝わりにくい。
ありがとうとごめんなさいを言える大人であり続けたい。
ちなみに父から謝られた記憶はない。

二人の息子として

ぼくの人生にはいろんなことがあった。
環境を恨むこともたくさんあった。

よく考えてみれば周囲の人に恵まれ、不自由なく順調な人生。
まだ28年目だが、母からもらったもの、父の哲学は深く刻み込まれている。

二人の息子として、ひとりの人間として
立派に生きていきたい。

いつかぼくに子どもができても
ぼくから伝えることは二人から教わったこと、
ぼくが学んだことを全て伝えるつもりだ。

母が命と引き換えに作ってくれた
ぼくの未来
父が自分を犠牲に向き合ってくれた
過去のぼく
自分自身、必死に探している
今のぼく

ぜんぶ大切に、
精一杯恩返しができたらいいと思っている。

愛する人と向き合うということ

ぼくには今愛する人がいる。
文字にしてみるとクサくて、
大切な人、と打ち直したが元に戻した。

それなりに恋愛をしてきて
この人を幸せにしたいと願う相手ができた。

ぼくの家族の形は"いびつ"だったけど
ぼくが欲しかった家族を作っていきたいと思っている。

この先どうなっていくかわからないことばかりだけど
最後に振り返れば後悔よりも
良かったことの方が多い人生にしたい。








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