見出し画像

ワクツィンを打て

 ついにワクチンが僕のところにやってきた。
 ただ想像していた姿とはだいぶ違っていて、玄関を開けた僕の目に飛び込んできたワクチンは、大柄で筋骨隆々の屈強そうな男だった。
「オレ、ワクツィン」
 片言でぶっきらぼうに自己紹介をすると、ずかずかと僕の家に上がり込んでしまう。

 土足で居間に踏み入ったワクチンは、僕に許可を得るでもなくどかりとソファーに腰を下ろした。両足を投げ出し、両腕を背もたれに回して、軽く貧乏ゆすりをしながら室内をあちこち窺っている。

 青い瞳、発達して尻のように割れた顎、冬だというのにタンクトップ。なるほどと思った。低温保存が必要と言われていたのは、ロシア系だったのが理由なのだろう。
 どうせロシア系なのであればスラリと手足の伸びた女性が良かったのだけれど、この際だから贅沢は言ってられない。僕だって危険な病気には掛かりたくはないのだ。

 はじめの内、ワクチンとの共同生活はなかなかに困難を極めた。
 なにせ彼はほとんど日本語を理解しておらず、片言の単語を並べるのが精一杯だったし、何を言いたいのかわからずに僕が困惑していると、その内に顔を真っ赤にしてソファーやベッドを力一杯に殴りだすのだ。
 食生活も合わなかった。彼の好物はピロシキ。しかもこだわりがあるらしく、必ず自分で作って食べる。だから僕が仕事から帰ると、ほぼ毎日、部屋の中には油の臭いが充満していて、慣れるまでは胸焼けがしんどかった。

 だがなにも悪いことばかりではない。
 せっかくだからと繰り出した夜の街では大手を振って歩くことができた。ワクチンの醸し出す威圧感に道行く人々は脇に避け、いつもならしつこい客引きも近寄ってすらこないのだ。
 極めつけは、知らずに入ってしまったぼったくり店での事だ。奥から現れた怖い人が、彼を見るやすぐにビビって引っ込んでしまった。お陰で事なきを得たのだから、まさにワクチン様様だ。
 それだけじゃない。僕が嫌な上司から目をつけられ不要な仕事を無茶振りされていると知るや否や、職場に押しかけて何やら大声で捲し立てたりもした。たまたまロシア語を専攻していた同期が言うには、労働と分配について熱弁を奮っていたらしい。
 とにかくこの一件以降、上司は及び腰になり僕への風当たりはかなり弱まった。結局の所、僕以外の奴へ矛先がシフトしたに過ぎないのだけれど、僕個人としてはワクチンが届いてよかったと心の底から感じられた出来事だった。

 そんなワクチンだが、大柄な巨体の割に手先が器用だったりする。僕のジャケットのボタンが取れかかっているのを付け直してくれたり、狭いベランダにプランターを置いてミニトマトやらハーブの類やらの栽培なんかもしている。
 おまえ案外器用なんだなと僕が言うと、「ワクチン、カネ、ナイ。オマエ、タスカル」と答えた。気を使ってくれていたらしい。

 だが、別れは唐突に訪れた。
 すっかりワクチンとの生活に慣れたある日のことだ。
 僕がなんの気無しに「ワクチンって打たなくていいのか?」と疑問を口にすると、彼はみるみる顔を紅潮させた。
「オマエ、ワクツィン、ウツカ? コムニスト、ウツノカ!?」
 突然のことに意味もわからず呆然としている僕に、ワクチンは分厚い胸板を差し出しながら「ウテ、ウテヨ!」と怒りに震えるような声でにじり寄ってきた。
「ぼ、僕が、ワクチンを打てばいいのか?」
「ワクツィン、ウテ!」
 しかし僕はワクチンを打つことを躊躇った。こんなに気心の知れた仲なのに、意味もなくそんなこと出来るはずがない。
 やがて業を煮やしたように、彼はその無骨な手を僕の首に掛けた。額に青筋を立て、目は血走り、瞳孔は開ききっている。
 僕がふるふると首を振ると、彼は苦しげに唸りながら徐々に手に力を込めていく。どういう理由かわからないが、涙をボロボロとこぼしながら。
 気づけば僕は、痺れて感覚の鈍くなった腕を振り上げていた。きっとそれを彼が望んでいるのだと、力加減もわからないままに思い切り平手を叩きつけた。
 思いのほか効いたのか彼は首から手を離し、僕の叩いた辺りを押さえた。しかし依然としてこちらを睨みつけ低く唸っている。
「ウテェ!!」
 いきり立った熊のように両手を広げ、なおもワクチンは襲いかかってくる。
 僕はもう一度、今度こそ全身全霊の力を込めて、ワクチンのガラ空きの胸筋を打った。
 ドンという鈍い衝撃音があって、ワクチンの突進が止まった。
 打ち付けた僕の平手に彼の穏やかな心音が伝わってくる。激昂していたのはフリで、本心ではない。それが衝撃で痺れた手を通じて、痛いほどわかった。
 僕の頬にも涙が伝う。
「なん、で……。こんな……」
 別れの理由を答える代わりに、ワクチンは最後の力を振り絞るように雄叫びを上げた。
 僕の腹へタックルをするように組みかかり、すぐさま後ろ側へ回り込む。そして両腕でガッチリと腰骨のあたりをホールドすると、そのまま持ち上げて背面側へ倒れ込んだ。そう、バックドロップだ。
 天井を掠めるように弧を描いた僕は、背中から思い切り床へ叩きつけられた。
 意識が薄れ、狭まっていく視界の中で、どうにか彼を引き留めようと手を伸ばす。
 ワクチンはそれを両手でしかと包み込むと、涙を拭くこともせずに力強い声で言った。
「オマエモウ、メンエキ、アル。シンパイ、ナイ」

 次に気づいた時、ワクチンの姿はもうどこにもなかった。


           ◇◇◇


 歩道のちょっとした段差に車椅子が引っ掛かった。

 副反応、といえばいいのだろうか。脊椎がつぶれ、僕の下半身は動かなくなっていた。
 なんのことはない、段差は少しばかり車輪に力を込めれば簡単に乗り越えられはする。けれど僕は、そうすべきかどうかで悩んでしまった。乗り越えてしまった途端、この段差には何の問題もなくなってしまうからだ。
 車椅子でなければ気づきもしなかった浅い段差。これは、いつ、誰が無くしてくれるんだろう? コミュニストか、キャピタリストか、アナキストか、はたまたエコロジストか。
 当たり前を大事にしすぎるあまり、当たり前じゃないものと向き合う努力を忘れてしまうなら、それは好奇心を糧にここまで永らえてきた人類にとって非常に重篤な病と言えはしないか。
 やってきたのも、打たされたのも、助けられたのも、酷い目にあわされたのも、全て問答無用だったワクチンの顔が浮かぶ。どうやらお陰で、少しは免疫がついたらしい。

 段差で固まっている僕のことを、追い抜きざまにチラ見したり、気にかけているような表情で遠巻きから見ている人たちがいる。
「みなさん、どうぞお大事に!!」
 僕はえいやと車輪に力を込めて、大げさに段差を乗り越えてみせた。

(了)

お時間に余裕ありましたら、他のやつも読んでやってくださいませ。