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異形の匣庭 第二部⑫-3【怨故知新】

 テーブル、麦茶の注がれた湯呑みが二つ。
 毎秒無音をかき消す秒針、時折唸る冷蔵庫と製氷機。
 妻と母、あるいは既にこの世にいない人物の写真。

 綺麗に整備されたアスファルトの歩道と目隠しの為に設置された生け垣の間に、エントランス前の噴水から続く水路がどこかの用水路まで続いている。用水路がほんのりと電球色に照らされ生け垣に反射し、ゆらゆらと生け垣の木々が揺れている様に見える。
 首が痛くなる高さのシックな装いのマンションが僕を見下ろしていて、こんなに空は狭かったかなどと要らぬ哀愁に浸っていた。
 いや、そもそもどこに居ようが下しか向いていなかった気もする。そう思うと空の狭さを比べるのも馬鹿馬鹿しい。
 革張りのソファが置かれた玄関ホールを進んでエレベーターを呼び、24を押す。音もなく昇っていく動きが精神を削っていく。

 玄関を開けようとしてドアロックがガツンと音を立てて止まり、明かりが漏れる。
「……そりゃいるよね」
 中から足音が近付いてくる。ロックが外される。
「……」
「……」
 ただいま、も、おかえり、も無い。僕は下を向いたままじっとしていた。偶然通りかかった隣人の訝しむ目が背中に突き刺さったが、先に喋ったのは父だった。
「何やってるんだ、入らないのか?」
 やはり僕は何も返さずに中に入っていく。勿論このまま何事も無く、という訳にはいかないようで呼び止められ
「着替えてからリビングに来なさい」
 とお達しを貰った。

  リビングに出て時計を見れば12時30分を過ぎていた。急ぐつもりも待たせるつもりも無かったけれど、痛みに耐えながらやる着替えはかなりの労力を要するのだなと改めて感じる。帰宅したすぐに着替え始めたはずなのに、15分以上かかっていたことになる。
 その間父は仕事をしていたようで、机の隅に書類が山積みにされ、パソコンが開いてあった。
「来たか」
 それらを片付けて麦茶の入った湯呑みを二つテーブルに置く。
「夕飯は済ませたのか」
 そう聞かれ頷いて答える。
「そうか……………………大丈夫か」
「……何が」
 いつもの完璧な回答。これを言えば答えも分かるし、大抵は「いや、なんでもない」と話が終わる。極力会話したくない時の常套句。
 突然大丈夫かと聞かれても何の事を言っているのか分からない。夕飯はいらないのか、の意味ではないだろうし時間的な話でもないと思う。となると、と言うか、ほぼ間違いなく島根での件になるんだろうけど、何をどこまで知っているんだろう。あの電話だけなら事情は知らないはず……まさかセツさんが電話したとか? 分からないでもないけれど、それならもっと聞き方がある。自分も人の事言えないと分かってはいるけど、親子揃って言葉足らずにも程がある。だからこういう時はこう返すしかない。
 その父が珍しく会話を続けようとする。
「……山鳴さんにお前が怪我をしたと聞いた。知らなかったとはいえ、あの洞窟に入るなんてなんて馬鹿な事したんだ。だから遺品も処分してあんな訳の分からない物に近付けさせないようしてたっていうのに……どうしていつも言う事を聞かないんだ。言う事も聞かない、何も言わない。学校にも行ってないんだろう? 先生から何度も電話がかかってきてるんだぞ。今は夏休みだからまだいいが、高校はどうするんだ。このままじゃどこにも行けなくなる。通信という手も今はあるが、幅は狭まる。あいつのことは忘れて自分の将来のことを考えろと何度も言ってるだろ。それがお前の為だ」
「…………」
「それにお前、まだあの本持ってるんじゃないだろうな? あんなの百害あって一利なしだ。わざわざ首を突っ込んでも悪い事しか起きない、怪我して身に染みただろ。あんな物捨てて、もうあの一族に関わるんじゃない、分かったな」
「………………い」
「ん?」
「い……いつもそうやって……僕の話なんか聞こうとしないでああしろこうしろって言うだけで……全部父さんの都合押し付けるだけで……転校だって勝手に決めて、僕が知るの全部決まった後だし、と、友達だと思ってたクラスメイトの顔ももう思い出せないし……唯一聞きたかったお母さんの話も何も教えてくれない。でも全部我慢してきた、全部自分で調べようとしてきた」
「……」
「お前の為だとか先生がどうのとか全部全部全部どうでもいい。ただ僕は……僕が誰なのか知りたいだけ。それがそんなに駄目な事なの? 自分の名前の由来だって知らなかった。僕がどれだけ嫌な思いしてきたか父さんは一度でも聞いた事あった? 無いよね? 小学校の時だって授業参観も運動会も卒業式だって来なかったじゃんか! 中学に入ってからもそうだよ! どれだけお小遣い貰ったってあんなのただの数字でしかないのに、そんなので関心ある風を装ったって何の意味も無いんだよ! 結局自分の事しか考えてないくせに、父親らしいこと何もしてこなかった癖に父親面するなよ!」
 手と背中の痛みも忘れ肩で息をする。手先と顔がジンジンと熱を持ち、次第に痺れへと変わっていく。いつの間にか上がった目線は、思わず立ち上がっていたことを気付かせた。
 父のあまり動かない表情と目の中に、ほんの少しだけ揺れ動く何かを見た。
 それは僕に思っていたよりも衝撃を与えたようで、僕は椅子に倒れ伏した。殆ど息継ぎせずに叫んだせいでの酸欠と、ここ数日間の疲れが今この瞬間に噴き出したようだった。
 軽い過呼吸になりつつある僕を見、父は僕の名前を呼んで傍に寄り背中をさすった。振り払う気力も無くなされるがままの僕を父は担ぎあげ、ソファに下ろした。
 抱えられたのはいつぶりだろう。遠い昔、それも物心着いた頃かあるいは。
 どこかの女の子の如く悪態の一つでもつこうかと考えたが、その努力は無駄だとただ天井を見つめた。
 父は僕の足元に座り、普段より神妙な面持ちで床を見つめている。状況と角度のせいでそう見えるだけかもしれないけれど、特に何するでもなく本当にただ床を見つめている。
 こうして無言の空間にいるとどうしようもなく血の繋がった親子なのだと実感してしまう。繋がり……継……つなぎ。人と人、人と物の繋ぎたれ。新しく出来た繋がりもほんの二、三日で消えてしまった。唯一残された遺品もよく分からない内に消え代わりの物になってしまったし、それが例え母さんが死んだ原因を教えてくれたとしても、それだけの事でしかない。
 僕は一体何が……
「すまない」
 父が精一杯の抑揚を付けて言った、様な気がした。返事をする気力も気持ちも無い僕は、黙ったまま続きを待った。
「お前が俺にそういう思いを持っているのは知っていた。知っていて……あえて見ないフリをしていた。今まで直視するのを避けていた、いや……どれも間接的か。俺は……俺は、お前達が怖かったんだ」
「……え」
 怖かった。息子である自分を怖い。
「幽霊だ妖怪だと目に見えない訳の分からないものに、躍起になって必死なって、自ら首を突っ込み時には差し出す事すらするお前達が心底恐ろしかった。そもそもそういう物を俺は信じていなかった……あいつに会ってお前が産まれるまでは。お前が自分で歩ける様になった頃、1人で遊んでいるはずが話し声が聞こえてきた。舌っ足らずでまだ単語も言えない様なお前が、誰かと話している。初めは気の所為だと思っていたし、発達が早いだけなのかと思っていた。勿論あいつはそうでないことを気付いていたが、とにかく……何かと話しているのは間違いなかった。特に寺や神社に連れていった時にはより顕著になった。丁度そういう内容の番組がやっていたのもあって、半分冗談交じりに言ったんだ『この子も見えてるのかもな』って。その時のあいつの顔…………そして聞いたよ。あいつがそっちの世界に居ることを。手助けしていることを。目には見えなくともそこ居る。確かに居る……その事実を俺は受け止めきれなかった。どれだけ喧嘩を繰り返したか……数え切れないくらい喧嘩した。俺は……………………お前に普通の人生を送って欲しかった。でもあいつは……燈はどうしようもなく山に惹かれたんだ」
 父が胸中を語るのは初めてで、僕はただただそれを聞いていた。正直に言えばどう捉えていいのか分からなかった。物事に対して僕と感想を言い合う時間は1秒もなかったし、気持ちや過去を吐露して考える時間も無かった。
 父の語りは続く。
「お前が六歳になっても喧嘩は絶えなかった。それで燈はよくあの家に戻るようになっていた。お互いに時間が必要だったしな。それで…………あいつが死んだ。もっと強く言えば良かったのか、それとも着いていけば良かったのか、それは分からないが。とにかくあいつが死んで、お前はショックのせいで記憶喪失になった…………これはチャンスだと思ったよ。普通の人生を送らせてやれるってな。まぁ結局それが全部裏目に出たんだから笑い種だが」
 父が自分の事を考えていたなんて予想だにしてなかった。冗談を言うタイプではないから、きっと本心なのだろう。
 聞いたからと言って許せるかどうかは別として、僕の心を大きく揺さぶったのは確かだった。
 しかし、更に続けて語られた二つの事柄は僕の予想を裏付け、そして大いに覆した。
「こんな事言っても信じられないかもしれないが、転校を繰り返させたのはお前が苛撫吏(かぶり)とか言う化け物にずっと狙われてたからだ。燈が死んだのもそいつのせいだって話だが……そいつは山鳴さんが捕まえたらしい。何でも燈が拾われた山にいた奴らしいが、詳しい内容は危険だからとかで教えては貰えなかったよ」

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