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異形の匣庭 第二部⑫-2【怨故知新】

 一軒のアパートの前に立ち、終始何かを気にして辺りを見回している。
 目の前をヘッドライトが横切ったのを確認して道路を渡り、1階中央の部屋に入っていく。
 物が散乱した室内のどこからか饐えた匂いが漂っており、これだけの暑さの中クーラーも扇風機も無い故の蒸し暑さが臭さを増進させている。
 廊下でそれらを纏いつつ一番奥へと向かい、ポケットから鍵を取り出して部屋の鍵を開ける。
 年季の入った学習机の他には中身が殆ど無い収納ケースが1つと、乱雑に折り畳まれた布団が一式。
 下着と草臥れたシャツ、紐の取れた短パンを取り出して風呂場に向かう。制服を脱ぎ捨てると、ガチャガチャで手に入れられそうなスライムの玩具を床に落とした際に出る、「ベチャッ」という音に似た音を立てた。
 浴室にさほど物が無いはずだが散らかって見え、排水口に絡まった白い髪がまた増えているのを一瞥無視した。
 温い水を頭から被りながら、この後やる事を何度も何度も何度も頭の中で反芻する。
 一つのミスも許されない。最初から最後まで完璧にやり遂げなければならない。頭の中で煮え滾る黒いマグマをコントロールしなければならない。
 でなければ──

 ガタッ

 シャワーの叩き付ける音に混じり、遠くで何かが床に落下する音が聞こえた。
 蛇口を締め急いで体を拭き上げ服を着、生乾きの臭いが残るタオルで適当に髪を纏め束ねる。静かに戸を開けて廊下を進むと、部屋の中で誰かが物を漁っている音とブツブツと呟く声が合わさりお経を読んでいるかの様だ。
 その人物が散らかった頭と背中にへばりついたシャツでなく、本当に僧侶であれば良かったのにと思わずにはいられない、
「……何、してんの」
 振り向いた顔には一瞬の焦りが見えたが、こちらの顔を確認するや否や安心と苛立ちに変わった。
「なんだお前か。びっくりさせんな」
 溜息混じりに男は言う。
「いや……だから、人の部屋で勝手に何してるのって聞いてるんだけど……」
 下着類が入った段を漁り床に投げ捨て続ける男。すぐ横のビール瓶がもう間もなく空になりそうだが、男は既に2本程空けていた。
「お前さぁ、場所変えただろ? ん? 俺の金どこやった?」
 男はケースを乱暴に引き抜き、衣類をバサバサと床に落としていく。
「やめてよ!!」
 叫ぶが意に介さず、続けて机の上を物色し始めた。
 教科書が落ちてページの中程から曲がり、その上に積み重なっていく。机の上から物が無くなると今度は引き出しをひっくり返し、ノートの切れ端が抵抗を受けてパラパラと飛散していく。それらが素足で退かされる度に薄らと指紋の形に黒い染みがついていく。
 静止しようと組み付くが簡単に振り払われてしまい、扉の縦枠に背中を強打しその場に蹲った。
 男は一番下の深い引き出しから雑貨の入った缶やファイルを乱雑に出し、それらの中に目当ての物がないと分かると腹を思い切り蹴り上げた。
「お前働いて金貰ってんだろ? 何のために金稼いでんだよ、育ててもらった恩を返す為だろーが。なぁ。どこにあんだよ」
 黙っていても機嫌を損ねるだけだが答える余裕はなく、更に踏みつけ罵倒を繰り返す。
「大体一丁前に鍵なんか付けやがってよ。なんでおれがこそ泥みてぇな真似しなくちゃなんねぇんだ? 誰の入れ知恵だ? あのババァか? また挨拶に行った方がいいよなぁ、なぁ!」
「おし……」
 殆ど残っていない空気を吐き出す様に言う。
「押し入れの……右上」
 チッと分かりやすく舌打ちと蹴りをくれた後、外れんばかりに勢い良く押し入れを開け、物を床に落としながら探す男。見えにくい位置に錆びた洋菓子缶があり、それを振るとザクザクと音がした。
 男は蓋を開けニヤリとし
「結構稼いでるじゃねぇか。流石俺の娘だな」
 と言い、部屋を出ていった。

 卒業と共にこの町を出て一人暮らしをする為に貯めていた金。その金が酒か煙草かパチンコか、あるいは風俗かに消えるのかは知らないが、とにかく戻ってくる事はない。
 嗚咽と涙が散らばったプリントに吸い込まれて染みとなり、卒業して一人暮らしする為の努力を黒く塗り潰していく。

 何故こうも耐えなければならないのか。
 幾ら血を分けた親だとして殺してはならない理由は何なのだろうか。
 ある人は「業を背負うから」だと言う。
 誰に知られずとも人を殺せば最後、あちらの世界に連れ去ろうと業は四六時中憑いて回り、死ねば極楽にも地獄にも行けずに彷徨い続ける。そして同じく業となり、また誰かを引きずり込もうと当てもなく彷徨うのだと言う。
 自殺の名所が名所たる所以。忌世穢物がこの世にある所以。
 全ては繋がっていて必ず自分の元に戻って来るのだと。
 だから人を殺してはいけない。
 自分が化け物にならない為に。

「だから……だからなんだよ…………」
 苦しいのは今だ。死んだ先の事なんか考えている余裕などない。
 むしろ業も死すらも誰かに押し付けて、私は図太く生き抜いてやる。
 私にはそれが出来るのだから。
 今日、やるしかない。

 鳴海は壁際に飛んで行った携帯を拾い上げ、きつく握り締めた。


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